柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

人種差別主義の欺瞞

第二次世界大戦中、米国の日系人が収容所に送られたことは少し歴史に詳しい方ならご存じでしょう。証拠を一切挙げることなく、日系人のスパイ行為や破壊活動が懸念されるからなどという理由で差別的な措置が取られたのです。たとえ当時の米国にとって日本が危険な敵国だったとしても、ただそれだけの理由で、罪もない日系人の基本的権利を制限したのは弁解の余地のない人権侵害でした。

米国の名誉のために言えば、日系人強制収用に対しては当時から反対の声を挙げる勇気ある米国人がたくさんいましたし、1976年以降、米国政府は公式に誤りを認め、被害に遭われた日系人に対して繰り返し謝罪の意を表明しています。1988年には存命の被害者に対して賠償を支払う法案が可決されています。時に暴走しても、最後は民主主義の自浄プロセスが働くのは自由の国、米国の美点です。

単に疑わしい属性を持っているからという理由で、その人が犯してもいない罪で人を裁くのは人権侵害であり、人間の尊厳に対する侮辱です。どんな人も個人として尊重されるべきなのです。右翼的な思想をお持ちの方でなくても、日系人への不当な差別には憤りを感じるでしょうし、それは全く正当なことです。

ところが、どういうわけか、最近の右翼の方の中には、戦争中ですらないのに、中国人の権利を何の証拠もなしにただ単に「中国人である」というだけで制限しても良いと考える方が少なからずいるようです。戦争中の米国の日系人に対する人権侵害を糾弾するならもう少し一貫性をもっていてほしいものです。実際にスパイ活動等が証拠によって確認され、正式な手続きが取られているなら無論取り締まるべきですが、それはその人物が何人であろうがどこの国籍だろうが関係なく当たり前のことでしょう。日本人なら安心な根拠などあるわけがありません。何の証拠もなしに中国人だというだけで権利の制限を要求するのは単なる人種差別であり人権侵害です。

もちろん、現在の中国が共産党一党独裁国家でたくさんの問題を抱えているのは明白ですし、中国政府の軍事行動や諜報活動に警戒が必要なのは言うまでもありません。しかし、だからといって、自分が嫌いな人物を事実かどうかも無視して中国政府の手先だなどと罵倒したり、不幸な事故や事件を何の根拠もなく素人の憶測で中国の陰謀のせいにしたりして良いことにはなりません。安全保障はもっと真面目な問題です。

中国政府の行動がどうであれ、中国で暮らす普通の国民や日本に住んでおられる中国系の方には何の罪もありません。彼らはむしろ中国政府の人権侵害の被害者です。中国政府の人権侵害を糾弾しながら、その最大の被害者である中国の一般市民の人権を根拠もなしに制限しようとするのは全くのナンセンスではないでしょうか。中国にルーツを持つ方を帰化人だからどうのなどと言いがかりをつけ、日本に住む中国人の人権を侵害して恥じない人たちが、中国政府の少数民族の迫害や人権侵害を非難してみせたところでまるで説得力がありません。

極右的な方々は安全保障の重要性とか国益を声高に訴えますが、日本が不寛容で中国人を排斥し、中国の少数民族出身の方にも極めて差別的な社会であるなら、中国政府にとってはむしろ大変好都合です。中国政府が人権侵害を理由に日本を糾弾すれば、政府の道徳的正当性を高めることができます。日本の国際的地位は失墜し、中国の民主派も日本に期待しなくなってしまうでしょう。

逆に、日本が人権を尊重する社会で、中国にルーツを持つ方も安心して暮らし、活躍できる社会であるとしたら、中国政府はよほど困るでしょう。例えば、日本で活躍する中国の少数民族出身の方が国際会議の場等で中国政府の少数民族への人権侵害を糾弾したなら、その効果は絶大でしょうし、中国の民主化を望む人たちにも希望を与えることになるでしょう。

世の中には、政治経済の話題を何でもかんでも中国に結びつけ、中国に関係があるというだけで貶める人がいますが、彼らの言う愛国心とは他国を憎むことなのではないかと思うほどです。自国を誇りに思っているなら、他国を貶めるより日本の文化を学んだりその美しさを世界に伝えたりすればいいではありませんか。日本の良さを訴えるのに、中国を貶める必要など全くありません。第一、中国文化から日本が多くを学んだのは誰でも知っていることです。中国文化は日本文化の不可欠な一部というべきでしょう。漢字も中国のものですから、ひょっとすると漢字*1を使うのは「反日」なのでしょうか?

*1:平仮名やカタカナも元は漢字を崩したものですが、中国にルーツがあるものは何でも信頼できないというのであれば、やっぱりそれも使わない方が良いのではありませんか?