柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

『本当に役立つ経済学全史』刊行のお知らせ

お知らせが遅くなりましたが、近日中に新著を出しますので、ご紹介させていただきます!

本当に役立つ経済学全史 (テンミニッツTV講義録) | 柿埜 真吾 |本 | 通販 | Amazon

テンミニッツTVでの講義をもとにした経済学史の入門書です。重商主義から古典派、マルクス等の異端の経済学者たち、限界革命後の新古典派ケインズハイエクフリードマンまでを簡単に解説しています。ご関心を持った方はぜひ手に取っていただければ幸いです!どうかよろしくお願いいたします!

 

見出しに飛びつくべからず

まあ、こんな記事にいちいち批判を書いても仕方ないのですが、偶々目に入ったのでコメントさせていただきます。

パックン バイデン大統領の“日本人は外国人嫌い”発言に「そこまで間違っていないかも」 | 東スポWEB (tokyo-sports.co.jp)

この記事に極右の皆さんは随分お怒りのようです。

Xは本当に治安が悪いですね。どうもこういった方々は日本人は外国人が嫌いで差別的な国だということを全力で証明したがっているみたいですが、こんな人たちの標的にされたパトリック・ハーランさん(パックン)はとてもお気の毒です。

さて、この問題の東スポの記事はいろいろな意味でひどい記事なのですが、それは極右の皆さんが勝手に想像されているのとは全然違う理由からです。

まず、この記事は見出しと内容に大きなずれがあります。パックンは「日本人は外国人が嫌い」などと一言も言っていません。むしろ全く逆です。記事本文を読めば、パックンの発言の趣旨は、むしろバイデン大統領の発言に対して極めて批判的で、その主張を強く否定するものであることがわかるはずです*1。最近の日本は移民受け入れを増やしており、日本人は外国文化に対して米国人よりも関心が高いと指摘し、「日本人は外国人嫌いではない」と明言しています*2

ここまで好意的な発言をされる方は珍しいくらい日本にとても好意的な発言です。パックンは日本人は外国人嫌いではないことを強く主張したうえで、最後に以下のような小さな留保条件を付けています(東スポが変な見出しを付け、極右の皆さんが飛びついたのはこの最後の部分です)。

「ただ、増加率が高いとは言え、日本にいる外国人の絶対数は、西洋各国に比べて非常に少ない。…〈中略〉…バイデンの思い込みは古いとはいえ、中国、ロシア、インド、日本が経済的に振るわない理由に(少なくとも数年前までは)移民に後ろ向きだったことを挙げているという、発言の趣旨自体はそこまで間違っていないかもしれない。」

しかし、これが「日本人は外国人嫌いだ」と主張する内容でないのは自明でしょう。一連の発言を読めば、発言の意図は「日本人は外国人嫌い」ではないことを強調するものであるのは明らかです。

この発言に対して、「パックン バイデン大統領の「日本人は外国人嫌い」発言に「そこまで間違っていないかも」」などという見出しをつけるのは、発言の趣旨を完全に歪めるものであり、まさに「見出し詐欺」です。「日本人は外国人嫌いではない」と明言している人物の発言を要約した見出しとして、これ以上に不適切で失礼な見出しはないでしょう。こんな見出しを付けたのは不注意か読解力の欠如か、はたまた極右のアクセスを狙った炎上狙いなのかよくわかりませんが、報道機関にあるまじきことです。

そもそも、この記事は、単にパックン本人のSNS上の発言をただまとめているだけの記事です。本人に取材したものではありませんし、引用にもミスがあります*3。まあ、極右の皆さんは日ごろから取材も証拠もなしに誰彼かまわず気に入らない相手に向かって「中国からカネをもらっているのか」とか「中国の工作員」とか気軽に何の根拠もないことを書いて他人を傷つけて平気な人が多いので、何も問題に感じないかもしれませんけれど…

記事にもがっかりしますが、極右の皆さんのパックンの発言に対する反応には、尚更がっかりさせられます。記事の本文も読んだ上で攻撃的な内容を書いている人も確かにいるにはいますが、明らかに何一つ読まずに「外国人嫌いとは何事か」と見出しに激怒して的外れな”反論”を書いている方が多く見受けられます。また、全く見当はずれな人身攻撃をされている方も少なくありません。日本の美点を評価してくれた方に対する随分結構なお礼の仕方ですね。見ているだけで本当にうんざりさせられます。

SNSに投稿するときは、腹が立っても深呼吸して、少し考えてから投稿することをお勧めしたいものです。単に人を傷つけることしかできないような文章など書かない方がましでしょう。「左翼メディアの劣化が…」「反日が…」とか決まり文句を言う前に、まずご自分のやっていることにもう少し注意されてはいかがでしょうか?

残念ながら、極右の皆さんの言動を聞いていると、パックンの評価よりもバイデン大統領の評価の方が正しいのではないか心配になってきます。日本に好意を持ってくださっている外国の方に対して、礼儀を知らない無礼な発言をする心無い人が多いのにはうんざりします。こういう少数の意地悪な方のせいでせっかく日本に好意を持ってくださった方が嫌な思いをするとしたら本当に腹立たしいことです。あなたが日本大好きの右翼なら、あなた方の心無い言動で日本のイメージが悪化することをもう少し気にしてくださいと言いたいところです。

なお、わかり切っていると思いますが、ここに書いたのはパックンの意見に賛成なのか反対なのかとかそういう次元の話ではありません。意見が正しい間違っている、好き嫌い以前の話として、まず記事を読み、事実を確認しましょうという話です。

*1:記事にもパックンは「バイデン大統領の“外国人嫌い”という見方を否定」したとはっきり書いてあります。高名な評論家氏はちゃんと記事を読んだのでしょうか?

*2:この記事のもとになったパックン本人の発言(Xの投稿より引用)は、以下の通り。

「【視点】真鍋さんの指摘に似ているが、10年で在留外国人の人数が50%アップ。15年で外国人労働者が4倍に増えた!この数字を見ると、日本は本当に外国人ウェルカムな国に映るでしょう。

しかも、日本人は昔から外国の時事、文化、職、エンターテインメントにも目を向け、外国語も全員勉強している。外国人に多大な興味を示していると思う。字幕付きの映画をまず観ないアメリカ人の数を考えると、我が国のほうが内向きに思われる。

30年の在日経験からいうと、僕はたまに嫌われることがあるが、それは多分自分の落ち度なだけ。日本人は外国人嫌いではない。

ただ、増加率が高いとは言え、日本にいる外国人の絶対数は、西洋各国に比べて非常に少ない。まだおよそ全人口の3%だし、このまま増え続けても2070年にはそれが10%に上がるだけ。

また、在日外国人の経済的な貢献は間違いないが、まだアメリカみたいに上場企業を大量に創立しているなどの経済効果は見えていない。

バイデンの思い込みは古いとはいえ、中国、ロシア、インド、日本が経済的に振るわない理由に(少なくとも数年前までは)移民に後ろ向きだったことを挙げているという、発言の趣旨自体はそこまで間違っていないかもしれない。」

*3:記事には、以下のような記述があります。

30年の在日経験からいうと、僕はたまに嫌われることがあるが、それは多分自分の落ち度ついては「なだけ。日本人は外国人嫌いではない」とバイデン大統領の“外国人嫌い”という見方を否定。

これは、「30年の在日経験からいうと、僕はたまに嫌われることがあるが、それは多分自分の落ち度なだけ。日本人は外国人嫌いではない。」という元の文章を誤って引用したものです。まあ、タイプミスはよくあることですから(私もやってしまうことはありますし)、そこまで咎めるつもりはありませんが、それにしても雑なまとめ記事というしかないでしょう。

バイデン大統領の発言

ゴールデンウィークですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。バイデン大統領の発言をきっかけに、移民をめぐる議論が盛り上がっていますね。

内輪の支持者の前の発言とはいえ、外国人嫌いの国の一つとして同盟国である日本をわざわざあげなくてもよかったのではないかというのは普通の感想でしょう。バイデン大統領は自国の移民受け入れの伝統を讃えるのに、外国をけなす必要はありませんでした。日本は最近移民の受け入れを少しずつ増やしていますし、当然ですが外国人嫌いでない人も大勢います(それに、もちろんですが、米国にも外国人嫌いや様々な差別があります)。日本に対して偏見を持った発言は控えてほしかったと思います。NBCなどの米国の報道も同様の指摘をしており、バイデン大統領の発言には批判的です*1

とはいえ、右翼の皆さんのこのニュースへの反応を見ると、「日本人は外国人嫌いだというのは全くその通りなのではないか」と思われてしまうようなひどい反応が多く、呆れてしまいます*2。多くの方は「日本人は外国人嫌いではない」と反論しているわけではなく、「***だから外国人が嫌いだ!」と叫んでいるだけに見えます。どうやら、彼らは日本人についてバイデン大統領の意見と同意見のようですね。

中には、バイデン大統領の発言を「内政干渉」などと反発しておられる方もいますが、バイデン大統領の発言をよく読めば、日本に「移民を受け入れろ」とか「外国人嫌いはよくないのでやめるべきだ」などとは言っていません。単に、移民を望まない方々が多いので日本は停滞しているという客観的な判断を述べているだけです。日本への言及は、ロシアや中国、インドなどと並べたついでの言及にすぎません。バイデン大統領は米国経済の強さは移民受け入れのためであることを強調するために*3、ついでに日本にも触れただけです。日本が移民政策をどうするかはバイデン大統領にはそもそも大して関心のない問題です。当人が言ってもいないことに憶測で過剰反応したり、いちいちヒステリックに叫ばなくてもよいのではないでしょうか。「そんなに外国人が嫌いなのか」と思われてしまいますよ。

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ちょうど話題になっているテーマですし、今はゴールデンウィーク中でせっかく読書の季節ですから、移民をめぐる議論をする際に押さえておきたいおすすめの経済学の啓蒙書を何冊かご紹介したいと思います。移民への賛否はあっても、少なくとも、こうした議論に目を通してから批判すべきでしょう。

ベンジャミン・パウエル編(2016)『移民の経済学』, 藪下 史郎[他]訳,東洋経済新報社

一般的な経済学の見地からは、自由貿易と同様、移民は受け入れ国にも送り出し国にも大きなメリットをもたらす政策であると考えられます。モノの貿易には賛成しながら人の移動には反対する理由は乏しいでしょう。本書に限らず、多くの経済学の実証研究は移民で犯罪が増える、国が貧しくなるといった主張は実証的根拠が乏しいことを指摘しています。移民と犯罪の関係については怪しげな伝聞やエピソード、まして単なる印象ではなく、データに基づく客観的な議論をすべきです。

友原章典(2020)『移民の経済学-雇用、経済成長から治安まで、日本は変わるか』中公新書 

パウエル編(2016)と比較すると、移民の経済的利益に対してはやや慎重な立場ですが、やはり移民による犯罪増加といった議論には証拠が乏しくむしろ空き家率の低下などを通じ犯罪を減らすことを指摘しています。移民をめぐる多くの懸念は誇張されていることを指摘している点では同じです。

フランク・カプラン, ザック・ウェイナースミス (2022)『国境を開こう!』御立英史訳,あけび書房

カプランは著名なリバタリアン経済学者でジョージメイスン大学教授ですが、この本はもっと知られてよい本です。この本は一般向けですが、注釈にはきちんともとになる先行研究を紹介しており、学術的にもしっかりした本です。移民問題への経済学的、哲学的な分析はエキサイティングで素晴らしいものです。米国を中心にした内容ですが、日本にも多くは当てはまる議論です*4

移民をめぐっては感情的な議論が起きがちですが、偏見をもたずに冷静な議論を心掛けたいものです。

*1:Biden calls U.S. ally Japan 'xenophobic,' along with China and Russia (nbcnews.com)

*2:まあ、彼らはネットでは存在感が大きくても、実際はごく少数派の人たちだと思いますが…

*3:バイデン大統領は移民が米国の利益になっていると言っているのです。実際、それは根拠がある話でしょう(例えば、以下の記事をご覧ください。The Jobs Numbers Aren’t Adding Up. Immigration Helps Explain Why. - WSJ 米国経済予想外の堅調の背景に移民の急増|2024年 | 木内登英のGlobal Economy & Policy Insight | 野村総合研究所(NRI)

*4:もちろん、こういった知見を前にしても、そのほかの理由から移民に反対するという立場はありうるでしょうが、少なくとも移民に関する客観的事実や賛成派の議論をきちんと理解してから反対するべきでしょう。

民主主義を脅かす選挙妨害

衆議院東京15区の補選の選挙妨害が話題になっています。暴力をふるって選挙活動を妨害するのは民主主義を脅かすテロ行為です。興味本位で面白半分にもてはやしたり、自分の嫌いな候補者へのいやがらせなら歓迎したりするのは民主主義を破壊する自殺行為というべきです。組織的で暴力的な選挙運動の妨害は、相手が右派であろうが左派であろうが許されないことです。これは相手がどんな不人気な候補者であろうと変わりません。選挙妨害で危険にさらされているのは特定の候補者の権利だけではなく民主主義そのものです。たとえどんな立派な大義名分を掲げていても、平和的な選挙を妨害する人たちは民主主義の敵であり、強く非難されるべきなのは当然です。

つばさの党の選挙妨害は証拠写真や動画も大量にありますから、もちろん警察は捜査しているでしょうし、当然、選挙後には処罰されるでしょう。ですが、こうした事件が起きるのは、そもそも街頭演説中の政治家は極めて無防備で、危害を加えようとすれば容易にできてしまうからです。安倍元首相の暗殺事件、岸田首相の演説妨害事件など恐ろしい事件が相次ぎ、街頭演説がいかに危険な活動であるかは今回の選挙前から既にわかっていたことです。

最近まで大きな事件がなかったのは単なる僥倖というべきで、一連の事件で街頭演説中の政治家を襲うのが容易であることがわかった以上は、今後も悪意ある人物や本物のテロリストがこうしたセキュリティー上の欠陥を利用しようとするのは目に見えています。この状況を解決しない限り、似たような事件はまた起きるでしょう。もちろん、悪質な選挙妨害を取り締まることは当然で罰則強化もするべきですが、罰則強化には限界がありますし*1警備体制の不備の問題は罰則強化だけでは解決しません*2。こうした事件が相次いでいる以上、安全の問題を解決する具体策がない限り、従来のような街頭演説を中心にした選挙活動を続けるのは無責任というほかありません*3

最もシンプルで合理的な解決策は街頭演説をやめることです。日本のような街頭演説や選挙カーでの名前の連呼が中心の選挙活動は諸外国では一般的ではありません。渡瀬裕哉先生が提言されているように、今後の選挙活動では、街頭演説は自粛し、選挙運動をネット配信や安全が確保できる会場での集会を中心にしたものに変えていく必要があると思います*4選挙カーで名前を連呼したり、中身のないスローガンを連呼したりするだけの現在の在り方よりもその方が政策の議論も深まり、有権者の判断材料も増えるでしょう*5。テロ対策、安全保障の観点からも早急に再発防止策を導入すべきです。

補選は明日が投票日ですが、候補者や支援者の方の安全が保たれ、無事に選挙が終わることを願っています。当たり前のことですけれども、選挙は民主主義の基本です。根拠のないデマや排外主義の陰謀論を流し、意に沿わない相手に嫌がらせを繰り返す団体に所属するような候補者、まして他候補の選挙運動を暴力で妨害する候補者を許してはいけません。万が一、そういった候補者が権力をふるう立場に立てば何をするかは容易に想像できることです。殺し合いでなく、投票で平和的に政治家を選ぶのは文明社会のルールです。いろいろな立場はありますけれども、民主主義を脅かすような候補者には絶対に投票しないことが大切です。民主的で平和な選挙の勝者は全ての有権者です。

*1:特に表現の自由言論の自由との関係上、極端な取り締まりは困難です。

*2:たとえ犯人に厳罰を科しても、大規模なテロで首相や閣僚が暗殺されてしまってからでは遅いでしょう。

*3:この問題は、以前も何度か触れたことがあります。テロは「社会の責任」なのか - 柿埜真吾のブログ (hatenablog.com) テロに断固たる姿勢を - 柿埜真吾のブログ (hatenablog.com)

*4:選挙のプロが緊急提言!「選挙の自由妨害罪」政治家が言わない根本的問題 早稲田大学招聘研究員渡瀬裕哉【救国シンクタンク研究員所見】#東京15区補選 (youtube.com)

*5:街頭演説から会場内の集会に切り替えれば、選挙妨害と言論の自由表現の自由をめぐる微妙な問題も解決できます。街頭での演説をしつこく何度も野次で遮るのは選挙運動を妨害するものだと思いますが(特にそれが明らかに組織的な団体による場合は悪質だと思いますが)、街頭は誰の所有物でもないですから、何を話しても自由ですし、どの程度の妨害なら悪質と判断するのかは難しい問題です。

例えば、演説が聞こえなくなるように大勢で取り囲んで政治家を罵倒し続けるのはどう考えても非常識ですが、たまたま演説している政治家のそばを通った一人の通行人が「××やめろ」と一言つぶやいたぐらいで「選挙妨害だ!」と騒ぐのはおかしいでしょう。グラデーションがあり、どこで線を引くのかは微妙です。候補者の主張を攻撃するプラカードを掲げて、候補者の近くに立つのは選挙妨害にも思えますが、「道のどこに立っていようと自由だろ」と言えばそれもそうですし、その表現の自由を奪うのはおかしいようにも思えます。政治家がその場所を自由に使う権利を持っているわけではありません。公道には仕切りがないわけですし、多くの人は単にそこを通りかかっただけで別に聞きたくて聞いているわけでもないですから、判断はあいまいで微妙なものにならざるをえません。
しかし、こういった微妙な問題は、会場での集会なら基本的にはありません。会場を借りているのは候補者ですし、参加者は集会の規則に同意しているはずです。別に演説を聞きたくなかったというような通りすがりの第三者はいませんし、集会の趣旨に同意せず、ただ単に妨害を意図しているような迷惑集団にはお引き取り願うことが可能です。

ルールを守れない参加者は会場責任者の判断で当然排除できます。映画館の中で実際はそうではないのに「火事だ!」と叫ぶのは言論の自由ではなくただの犯罪であり所有権の侵害です。映画館は、勝手に騒いだり映画を罵倒したりする自称評論家をつまみ出す権利がありますし、講演者は講演会を野次で妨害する自称一般市民を会場から追い出すことができます。そういったことをする人は営業妨害なのですからそうされて当然です。

間違いを認める大切さ

いくら注意していても、間違った意見を言ってしまうことは誰にでもあることです*1。大切なのは間違いに気が付いた後の対応です。当たり前のことですが、きちんとお詫びし、訂正するのが大切だと思います。反対に、間違いがわかった後も、間違っていないと自分の誤りを認めずに変な陰謀論めいた主張をしたり、間違いを放置して訂正しないのは積極的に誤解を広めているのと同じで問題でしょう。特にそれが他人に対する誹謗中傷の場合は猶更です。社会的に大きな影響力のある方がきちんと調べもしないで間違った情報を拡散し、誤りを指摘された後も投稿を撤回せず、そのままにしているのはさすがにどうかと思います。

極右の皆さんの大騒ぎしていた大林ミカ氏の経歴の”疑惑”について、4月8日に自然エネルギー財団の声明が発表されました*2自然エネルギー財団は大林氏の資料に中国国営企業のロゴが含まれた経緯は事務的ミスであるとした上で、大林氏の経歴について一部のネット情報は明らかに虚偽だと指摘しています。

「大林事業局長に関し、SNSの一部で全く事実と異なる情報が流されていますので、以下に履歴を明記しておきます(主な内容は財団のスタッフ紹介ページに記載されており、また国には証明書含め提出し 既に説明済みです)。同氏は、大分県中津市生まれの日本人であり、国籍も日本です。「大林ミカ」は本名(戸籍名)であり、カタカナ表記の「ミカ」も本名です」*3

ロゴの問題には議論があるかもしれませんが、少なくとも大林氏の経歴に関しては自然エネルギー財団の声明は信憑性が高いものとみてよいでしょう。

そもそも、大林氏の国籍が怪しいという話はもともと地方公務員を名乗る匿名アカウント(現在はアカウントごと削除)が投稿していた真偽不明の情報を池田信夫氏などが拡散したことで広まったもので、最初からデマの疑いが濃厚でした。問題の投稿は次のようなものです。

過去に再エネタスクフォースは電力の安定供給を脅かすような提言をしていたから、地方公務員のわいは同タスクフォースのメンバー4人を住基ネットで検索したことがあるんだけど、「大林 ミカ」だけ該当しなかった。経歴・学歴はおろか国籍・本名も不明な人を登用しているヤバさよ、、、解体すべき*4

そういっているこのアカウント自身が「経歴・学歴はおろか国籍・本名も不明な人」で自称公務員に過ぎないのですから、出来の悪いブラックジョークのような話です。こんな情報を鵜呑みにするのはそれこそ「ヤバい」でしょう*5

面白いことに、ネット右翼の皆さんのアカウントは大部分が匿名であるにもかかわらず、自分の気にいらない人を見つけると、すぐ「○○は通名/偽名」などとレッテルを張り、「信用できない」と主張しがちです(その情報ソースの人も今回の場合もそうですが、大抵は匿名です)。矛盾したおかしな話だと思います。

実際には、この匿名アカウントの主張は、気に入らない人間を誰であれスパイだとか国籍がどうのとか騒ぐ極右のいかがわしい言説そのものですし、全く信頼するに足らないものであることは最初から自明でした。こういった真偽不明の情報を拡散した方々は大いに反省していただきたいと思います。

これだけ重大な中傷をしておいて、間違いがわかっても何もしないなどというのはあり得ない対応でしょう*6。黙ったままで投稿を削除もしないというのはデマを広めているのと変わりません。「ロゴの問題は事務的ミスでは済まされない」などと延々と言い続けているのですから、きっと「デマ情報を拡散し今もそのまま放置しているのも単なるミスでは済まされない」はずですよね?

朱鎔基元首相の写真が背後に飾られている大林氏の写真については、極右がさんざん工作員である証拠だなどと煽り、アゴラのような責任ある言論サイトまで「なぜか事務所には中国の朱鎔基元首相の額が。」*7などと騒いでいましたが、自然エネルギー財団の声明は次のように指摘しています。

「ネット上で、大林事業局長の背後に中国の朱鎔基首相の写真が飾ってある写真が取り沙汰されていますが、この写真は、日本記者クラブの喫茶室で共同通信により撮影されたものです。喫茶室には、過去に記者クラブで講演した多くの首相たちの写真が飾られています」*8

この件は撮影者の井田徹治氏がXで明快に説明しており*9、完全に決着がついたといえるでしょう。この期に及んで朱鎔基が云々と言い張るならそれはまさしく陰謀論です。

池田先生は、他人のミスをタイプミスのような些細なミスですら厳しく咎め、しょっちゅう「バカだな」とか「頭のねじが外れている」とか酷い言葉で罵倒されているぐらいですから、当然ご自身が根拠のないデマを拡散したことについても厳しく断罪し、謝罪されるのでしょう。どんな謝罪をされるのか楽しみです*10

人間には誰しも間違いはありますから、間違ったことを書いたり言ったりしたこと自体は咎めるつもりはありませんし、誤りは訂正すれば済むことです。ですが、他人を激しく罵倒しておきながら、間違いがわかっても訂正せず謝罪もしないというのは決して褒められた態度ではないと思います*11。批判を無視して訂正せず、誹謗中傷に近いような発言を繰り返したり、都合の良い情報だけに飛びついたりしていると極右の陰謀論とほとんど区別できなくなってしまいます。

*1:もちろん、以下の文章は自戒も込めて書いています。まず、そもそも誤りのないよう細心の注意を払うのは当然ですが、失敗したときは正直に訂正するのが本当に大切ですね。公に文章を書いている者として初心を忘れずにいたいと思います。

*2:自然エネルギー財団と中国国家電網の関係について | お知らせ | 自然エネルギー財団 (renewable-ei.org)

*3:自然エネルギー財団と中国国家電網の関係について | お知らせ | 自然エネルギー財団 (renewable-ei.org)

*4:既に削除済みのOkuboを名乗るアカウントの2024年3月23日の投稿

https://twitter.com/chishoin/status/1771516760463991079)。投稿自体は複数の方(例えば、)が保存していて、今も一応見ることができます。

*5:仮にこの投稿内容が本当だったとしたら、これは公務員による個人情報の悪用の自白ですから、実に恐ろしい話で、すぐ取り締まるべき話です。大林氏をたたくことができるなどと喜んでいる場合ではなかったでしょう。もしこのアカウントの主張を真に受けたのであれば、こういう行為自体を厳しく咎めるべきでした。中国共産党が怖いといいながら、中国共産党並みの個人情報の悪用は自分たちに都合が良ければ歓迎してしまうというのは呆れた話です。

*6:池田氏の投稿を確認すると、4月8日以降に大林氏の国籍を問題にした投稿はないようですが、あれだけ騒いでいたのですから、国籍については誤りだったと認めるべきです。仮にもし自然エネルギー財団の声明を疑うというならその根拠を示すべきです。

一部の右翼が既に言っている「国籍を隠すこともできる」「偽造かもしれない」などという主張はもちろん全く説明になっていません。当初の”疑惑”自体がでたらめな信頼するに足りない情報をもとにしたものなのですから、そのような「証拠はないけれども、そうかもしれないだろ!」などというのはナンセンスな言いがかりというべきです。

この手の最初から存在しない架空の疑惑なるものをでっちあげて、それが否定されると「疑惑は深まった」、「…という可能性もある」などと論点をずらしていく手法を右派の方々は左翼の常套手段だ、悪魔の証明を求めるものだなどと主張してさんざん批判していたはずです。実際には、この手の言いがかりは左翼メディアにも右翼メディアにも同じようにみられます。嫌いな人たちは、みんな「反日」で国籍に疑惑があるとか帰化人だなどといい、そうでないなら「証明してみろ」といい、本人がいくら違うといっても「証明になっていない。疑惑は深まった」と言い続けるのは極右の常套手段です。

*7:【更新】疑惑の大林ミカさんが再エネTFを辞任 | アゴラ 言論プラットフォーム (agora-web.jp) アゴラ編集部は記事にお詫びと訂正の追記を入れるべきではないでしょうか。こういうことを放置されるのは、よい記事も多く掲載されているだけに極めて残念です

*8:自然エネルギー財団と中国国家電網の関係について | お知らせ | 自然エネルギー財団 (renewable-ei.org)

*9:井田徹治氏は、次のように投稿しています。「朱鎔基・元首相の写真は、写真を撮影した日本記者クラブで同氏が講演したことを紹介するために同記者クラブが撮影、掲示しているもので大林さんとは一切、関係がありません。この事実に反する誤った情報が流布されているものも目にします。これも早めに削除されることをお勧めします。」(井田徹治氏のX投稿)。この投稿に添付されている写真もご覧ください。

*10:そういえば、アンミカさんについて「密入国は本人が言ってるんだから事実。」(2023年12月9日の池田信夫氏のXの投稿、この記事を参照)という根拠のない投稿をされていましたけれど、削除したとはいえ謝罪と訂正のお知らせはどうなっているのでしょう?

それに、ここ最近は、水原一平氏の違法賭博事件についても「大谷が送金に関与したことは明らかで、横領の被害者ではない。」「水原が「盗んだ」と供述し、大谷も口裏を合わせた」「こんな大胆な嘘をついて、公判で嘘をつき通せるのか。」などと断言されていましたが、こちらもどうなったのでしょう。無責任にもほどがあるでしょう。

大谷選手の関与を主張していたひろゆき氏の謝罪は誠意がないと批判を浴びましたが、謝罪して訂正しただけまだ立派だと思います。

*11:どんなことにでも意見をもっているのはそれはそれで素晴らしいと思いますが、意見の公表にはそれなりの責任を伴うでしょう。自分の専門に無関係なことについて何でも気軽に発言し断言するのは賢明な態度とは言えないのではないでしょうか。特に他人に対する誹謗中傷に近い強い言葉を使う場合は猶更です。専門的な歴史論争や科学論争あるいは刑事事件といった畑違いの分野についてはまずは専門家の一般的な意見を確認し、軽々に断言したりいい加減な根拠で人を誹謗したりしないようにするのがよいのではないでしょうか。

お詫びと訂正

先日の記事(1,2)では、大林ミカ氏の背後に中国の朱鎔基元首相の写真が飾ってある写真について取り上げ、一部の極右が流している主張はデマである可能性が高いと指摘しました。これについて、4月8日、自然エネルギー財団から発表がありました。

「ネット上で、大林事業局長の背後に中国の朱鎔基首相の写真が飾ってある写真が取り沙汰されていますが、この写真は、日本記者クラブの喫茶室で共同通信により撮影されたものです。喫茶室には、過去に記者クラブで講演した多くの首相たちの写真が飾られています」*1

この写真の撮影者である井田徹治氏は、次のように投稿しています。

「朱鎔基・元首相の写真は、写真を撮影した日本記者クラブで同氏が講演したことを紹介するために同記者クラブが撮影、掲示しているもので大林さんとは一切、関係がありません。この事実に反する誤った情報が流布されているものも目にします。これも早めに削除されることをお勧めします。」*2

これでこの話は決着がついたといえるでしょう。先日の投稿では私は一部の極右が写真を理由に大林氏を工作員などと攻撃している件について、デマである可能性が高いとしましたが、実際その通りだったわけで、これで愚かしい陰謀論の誤りは十分はっきりしました。

ただし、写真については不鮮明で朱鎔基氏のものではない可能性があると主張しましたが、結果的にこれは誤りでした。読者の皆さんにお詫びして訂正します。私の記事では写真の真偽は断定せずわからないということは強調していたかと思いますが、写真の一致率の判定は不鮮明な写真ではなかなかうまくいかないものですからこの点をもう少し強調すべきでした。

とはいえ、仮に写真が本物だったとしても、極右の主張は誤りである可能性が高いと注記し、次のように主張しましたが、これは正確だったと言えます。

「仮に問題の写真が朱鎔基の写真だとしても(ありそうにありませんが)、いくらでも可能性が考えられますし、大林氏が朱鎔基を崇拝しているとかまして中国の工作員であるとかいった結論は出てこないでしょう。…(中略)…そもそもこの写真の撮影場所は不明ですから、偶々、新聞社の取材で出向いた先の場所に写真があっただけということだってあり得ます。朱鎔基元首相の写真が写っていたから(繰り返しますが、そうだと断言できる根拠はありません)、だから中国の工作員とか言うのは荒唐無稽です。」*3

一応、記録のため、これらの記事は削除せず残しておきます。

なお、自然エネルギー財団は、大林氏の国籍については次のように述べています。

「大林事業局長に関し、SNSの一部で全く事実と異なる情報が流されていますので、以下に履歴を明記しておきます(主な内容は財団のスタッフ紹介ページに記載されており、また国には証明書含め提出し 既に説明済みです)。同氏は、大分県中津市生まれの日本人であり、国籍も日本です。「大林ミカ」は本名(戸籍名)であり、カタカナ表記の「ミカ」も本名です」*4

先日の投稿では、「地方公務員」を名乗る匿名アカウントの主張はデマである可能性が高く、それを真に受けて「大林氏の国籍」を問題にする池田信夫氏をはじめとする方々はネットリテラシーが欠如していると批判しましたが、予想通りの結果です。

国籍や写真の話がデマであることがはっきりしたわけですから、「大林氏は工作員」などと言って写真や国籍について騒いでいた方々は謝罪し、速やかに投稿を削除すべきでしょう。デマを散々投稿しておきながら、そのまま放置し訂正する気がない方々は当然ですが訴訟を受けて立つ覚悟があるのでしょう。

市場の失敗に関するフリードマンの見解

先日の投稿で市場の失敗について私の述べた見解は、ミルトン・フリードマンの主張とほぼ同じものです。フリードマン社会主義者国家主義者にとって、自由主義のシンボル的存在であるようで「市場万能論者だった」などと攻撃されがちですが、実際にはそれは藁人形への批判というべきです。不注意な介入主義者とは反対に、彼は市場の失敗にも政府の失敗にも同じように注意を払っていたというだけのことです。

ミルトン・フリードマンは市場の失敗に対して全く盲目どころではありませんでした。彼は1980年代の日本のバブルや1990年代末の米国のITバブルをいち早く警告した人でしたし*1外部不経済の問題には『資本主義と自由』をはじめとする一般書でもきちんと触れています。実証主義者であるフリードマンは、実際に市場がうまくいかないときはその事実をありのままに認めましたが、市場が失敗しているからと言って、政治家の善意と裁量にゆだねてよいと考えるほどナイーブではありませんでした。あるインタビューでは、次のように述べています。

インタビュアー:「ある経済学者たちは、おそらく大半の経済学者がそうだが、次のように論じている。マネタリストケインジアンの根本的な違いは、マネーサプライの影響に関するそれぞれの見方の違いではなくて、市場メカニズムが均衡をもたらす力に関する異なった見方である。マネタリストが市場の力が均衡をもたらす傾向を信頼しているのに対し、ケインジアンは深刻な市場の失敗があり、それはマクロ経済レベルでの何らかの積極的な介入を必要とするのだと論じるのだ、と。このような見方に同意するか?」

フリードマン:「そのような見方には同意しない。あらゆるタイプのマネタリストがいる。市場の失敗を強調する人もいれば、そうでない人もいる。すべての経済学者は、マネタリストであれケインジアンであれ何であれ、市場の失敗のようなものがあると認めている。

私が思うに、経済学者を本当に区別するのは彼らが市場の失敗を認めるかどうかではなく、彼らが政府の失敗をどれほど重く見るか、とりわけ、政府が市場の失敗といわれているものを是正しようとするときに、政府の失敗をどう見るかである。この違いは、経済学者が様々な問題に取り組む際にどんな時間的視野で考えるかと関係する*2

私自身についていえば、私は、市場の力が均衡をもたらす傾向については、大半のケインジアンよりも信頼しているわけではない。しかし、問題を悪化させずに市場の失敗を是正する政府の能力に対しては、大半の経済学者(ケインジアンであれ、マネタリストであれ)よりもずっと信頼していないのだ。」*3

極めて深い洞察であると思います。実際、私たちが一番不満を感じることが多い市場はどういう市場でしょうか。たぶん、医療、介護、教育、農業といった分野ではないでしょうか。あるいはなかなかつかまらないタクシーかもしれません。こういった分野では市場の失敗を是正するために政府のさらなる介入が必要なのでしょうか?いや、むしろこれらの最も不満の多い分野こそまさに政府が最も深く関与している分野でしょう。

例えば、医師の数が少ないのは医学部の定員を制限し新規参入を阻止しているからです。バターが足りなくなったり牛乳が余ったりするのは農水省が管理する計画経済風の生産体制や国家貿易のおかげです。タクシーがなかなかつかまらないのは、そもそも政府が台数を制限して新規参入を阻止し、ライドシェアのような新しいサービスも認めてこなかったのですから当然です*4。これらの問題は市場の失敗ではなく特定産業と結びついた政府による既得権保護がもたらした「政府の失敗」です。政府の規制は、元々の意図は立派なものだったのかもしれませんが、意図ではなく結果を見ればその失敗は明白です。特定の産業への支援や介入は、規制当局や政治家と業界の癒着を招き、消費者を犠牲にする既得権保護になりがちです*5

フリードマン教条主義的な自由放任主義者であるかのように言うのは全くの誤りです。フリードマンは市場だけではうまくいかない場合には、負の所得税や教育バウチャー、医療貯蓄口座といった貧困層を救うアイデアを積極的に提案することを厭いませんでした。彼が反対したのは、弱者保護に名を借りた政府による特定の産業への利権誘導や既得権保護です。市場の失敗を口実に闇雲に政府が介入した結果は時代遅れの産業をいつまでも保護し技術革新の導入を妨げ、独占を打破する新規参入を阻止する結果に終わるのが常です。だからこそ、フリードマンは、市場の失敗があり介入が必要になる場合でも*6、市場にとって代わる介入ではなく市場を活用した政策を支持し、政府の役割を厳しく限定する必要性を訴えたのです。「市場の失敗があるのでフリードマンなんて古い」などという流行の最先端にいるつもりの介入主義者よりも、フリードマンは遥かに先を見通していたといえるでしょう。「市場原理主義」などとレッテルを張ってフリードマンを否定しようとするのは全く不毛な試みです。

*1:この辺りは拙著でも紹介したところですので、興味のある方はご覧いただければと思います。

*2:短期を重視すると介入主義的になりがちで長期を重視すると市場に任せるべきという判断になりがちという指摘(Friedman,M and Friedman, R. D.(1999) Two Lucky People: Memoirs, Chicago: University of Chicago Press)。

*3:Snowdon, B., & Vane, H. R. (1997). "Modern macroeconomics and its evolution from a monetarist perspective: An interview with Professor Milton Friedman," Journal of Economic studies, 24(4), 191-221.

*4:なお、4月から日本版ライドシェアが始まっていますが、運行主体をタクシー会社に限定し、台数を制限した上に価格競争も認めない「日本版ライドシェア」は諸外国のライドシェアとは大きく異なります。

*5:フリードマンはいささか皮肉な言い回しでこうした典型的な政府の失敗を風刺しています。「政治においては、市場とは反対の方向に動く見えざる手がある。政治においては、公共の利益だけを追求している人々は、見えざる手に導かれて、彼らがまったく意図しなかった特殊利益を促進することになる。」(Friedman, M(1983) Bright Promises, Dismal Performance: An Economist's Protest,  New York:  Harcourt Brace Jovanovich).

*6:彼は市場が失敗している場合でも政府が介入しない方がまだしもましである場合が多いと考えていました。実際、それはしばしば正しいでしょう。

市場の失敗をめぐる論争

アルゼンチンのミレイ大統領の言動はリバタリアンの熱い注目を集めていますが、彼が今年2月に米国の「保守政治行動会議(CPAC)」で行った演説は、オーストリア学派経済学のマニフェストというべき内容で大きな話題になりました。

自由主義経済学について紹介しておられる自由主義研究所*1のサイトにこの演説の素晴らしい翻訳がありますので、ぜひご覧ください。

「自由のための戦いを諦めてはいけない」~ミレイ大統領CPAC演説全文 |自由主義研究所 (note.com)

演説はCPACのような政治集会にはやや不似合いとも思える理論的内容ですが、オーストリア学派経済学者としてのミレイ氏の信念を知る上で非常に興味深い演説です。最近のCPACは反グローバリズム陰謀論をもてはやすMAGA(トランプ支持者)の集会になりがちなのですが、自由貿易の意義を堂々と訴えているあたりは立派だと思いました。ミレイ氏の演説はこの他にも産業革命以降の自由市場がもたらした経済成長こそ人類の貧困を大きく減らしたことを指摘している点など有益な指摘が多いと言えます。

ただ、その一方で些か心配になる部分があるのも確かです。例えば、地球温暖化に関する根拠の乏しい発言や中絶を社会主義と結びつけ「中絶という殺人的な政策」の起源を聖書の嬰児殺しに求める陰謀論的な発言等です*2。CPACでは、ミレイ氏は米国のトランプ前大統領と親しさをアピールしていましたが、政治は妥協の産物とはいえ、権威主義的な文化保守主義との接近には危うさを感じます*3

ここでは、ミレイ氏のCPACの演説の経済学に関する部分について(その内容の多くには賛成であるということをお断りした上で)、私が賛成できなかった点を取り上げたいと思います。この演説で非常に興味深かったのは、ミレイ氏が論敵として社会主義共産主義よりもむしろ専ら新古典派経済学を集中的に批判していた点です。

新古典派経済学とその「市場の失敗」に対する見方が、いかに社会主義の前進を促進しているか、そしてそれがいかに幸福の向上と貧困との闘いにブレーキをかけ、経済成長を破壊しているかに焦点を当てて話そうと思います。

新古典派経済学」というと*4、一般には「市場原理主義」であるといった誤解が多いのですが、ミレイ氏は新古典派経済学の「市場の失敗」の考え方こそが政府介入を正当化し大きな政府社会主義につながる元凶だと主張しています*5

確かに、新古典派経済学は競争市場の効率性を主張する一方で、市場がうまく機能しない「市場の失敗」のケースでは政府の介入が経済厚生を改善しうると主張しています*6

通常のケースでは、市場は自発的交換のプロセスですからお互いに得をしないような取引は起きません。自分がわざわざ損をする取引をする人はいません。市場がもたらす結果はだから通常は効率的なのです*7。ただ、市場に少数の独占的取引相手しかいない場合や、取引に参加しない第三者に悪影響が及ぶ場合(外部不経済)、あるいは取引参加者の持つ情報に偏りがある場合(中古車市場で売り手は品質を知っているが、買い手は分からないような場合)等には、市場取引が最適な結果につながらない場合があります。これがいわゆる市場の失敗です*8

しかし、新古典派*9には市場の失敗があるからと言って、政府が介入しさえすればいいという話にはなりません。政府の失敗も深刻な問題だからです。政府の失敗が酷い場合は、市場の失敗があっても政府が介入しない方がまだましということはあり得ます(思うに、大半のケースではそうでしょう)。結局、その場合は不満足な選択肢の中からよりましな解決策を選ぶしかないというのが一般的な考え方ですし、私自身この立場です。

ところが、オーストリア学派的には、こういう新古典派経済学の微温的立場は我慢のならないものだということになるようです。ミレイ氏によれば、市場は自発的な協力に基づく交換なので、それが当事者にとって悪い結果をもたらすことはあり得ません。ミレイ氏は新古典派を論難し、次のように述べています。

市場とは社会的協力のプロセスであり、そこでは財産権が自発的に交換されます。
実際、交換は自発的なものであるため、市場の失敗について話すことは不可能です。
なぜなら、自虐的な行動をする人はいないからです。
したがって、市場を適切に定義すれば、介入の定義はすべて崩れます。

彼の主張は説得的でしょうか。「新古典派」をどう定義するかによりますが、主流派経済学への批判という意味ではそうは言えないと思います*10

私は市場は多くの場合うまくいくし、問題が起きるのは大抵は政府の介入のせいだと思いますが(例えば多くの独占は政府の支援なしに成立しなかったと思いますが)、市場がいつも完璧だとは思いません。例えば、国防を考えてみましょう。自衛隊が民間企業で、北朝鮮のミサイルからの防衛サービスを提供しているとします。私がそのサービスを買ったとしましょう。この場合、私の周りに住んでいる方は全員が自動的に北朝鮮のミサイルから守られることになるでしょう。自衛隊が私以外の人を守るために追加的に必要になるコストは何もありません*11。これ自体は結構なことですが、厄介な問題があります。自衛隊からサービスを買っても買わなくてもどうせ守ってもらえるのですから、多くの住民は費用を払わずに自衛隊のサービスにただ乗りしようとするでしょう。そうなれば、自衛隊は費用を賄えずに倒産してしまいます。自衛隊が対価を払っている住民以外が守られないように、サービスを購入していない住民を排除することが可能なら話は別ですが、通常それは効率的ではない上に著しく困難です*12。市場で国防サービスが取引されているような場合、結果は著しく非効率で、危なっかしいものになるでしょう。このようなタイプの財を公共財と言います。私自身は公共財はごく少数しかなく、それも民間で供給したほうが政府に供給させるよりもうまくいく場合も多いと思いますが、そういう財が絶対にないとは思いませんし、国防は政府が供給すべきだろうと思います。無論、国による公共財供給にしても効率的でないのが普通で無駄は発生しますが*13、市場で供給するのが著しく困難で大きな問題が発生する場合は政府が供給するのがまだましである場合があるでしょう。もちろん、ミレイ大統領も政治家をやっているのですから、少なくとも今のところは政府は必要ないとまでは考えておられないわけです*14

次の例として、工場の煙が洗濯物を汚したり健康に被害を出したりする典型的な外部不経済の状況を考えましょう。工場を持つ企業とその生産物の消費者との間には、互恵的な取引が成立しています。しかし、その副産物として生まれた公害に対して、工場所有企業は費用を払っていません。この結果、第三者の被害を考慮しない工場の煙の排出は過大になります。これが外部不経済です。

オーストリア学派的には、これは清浄な空気を所有する住民の所有権が工場に侵害されているのであり、市場が存在しないからこそ問題が起きるのだということになるでしょう。市場はあくまで失敗しないのだ、と。

確かに煙害の”市場”が存在すれば話は変わってきます。工場が1社で、被害を受けている住民がその工場を特定できるような場合なら、所有権が明確に定義されていれば両者の自発的交渉で望ましい結果が達成できます*15。しかし、通常はどの工場から出た煙で健康を害しているかとか洗濯物が汚れたのはどの工場の煙のせいかなどを特定するのは困難で、被害者住民が全員で集まったり工場と交渉に行ったりするコストもバカにならないのが普通です。このようなケースでは、確かに厳密には「市場がない」というべきですが、「市場に任せてもうまくいかない」といってもかまわないでしょう。市場が失敗しているからと言って政府の介入がうまくいく保障はありませんが*16、少なくとも、市場に任せた結果は改善の余地があり最善でないとは言えるでしょう。

とはいえ、市場は完全ではなく失敗しうるというのは、別に政府万能を意味しません。皆さんは品質の怪しげな商品を買わされた経験が一度や二度はあるでしょう*17。他の産業に比べてより劣った満足のいかない市場というものも知っていると思います。市場の失敗を議論する経済学者は単にその現実を認めているだけです。市場について現実的だからと言って、何もそれは社会主義計画経済を肯定することにはつながりません。

政府について幻想を持たず、現実の姿をありのままに見てみましょう。世の中には、市場は現実的に見るのに、政府は非現実的な理想の姿で見る人もいますが、まともな経済学者はそういうナイーブな見方はとりません。政府も市場も現実的に考えます。公共選択論という分野では、政治市場を他の市場と同じように分析し、政府の失敗を分析しています。政治市場ほど失敗の多い市場はないでしょう。少数の政党による寡占市場で、有権者と政治家には情報の非対称性があり、政治家と官僚にも情報の非対称性がある等々…こんな欠陥だらけな市場はなかなかありそうにありません。政治家や官僚が天使でないことは皆さんもご存じでしょう。政治について現実的に考えれば、政府に何でも任せるべきだという結論は決して出てきません。むしろ殆どのケースでは、たとえ不完全であっても市場に任せる方が遥かにましなのは明らかです。

市場の失敗を認めるか認めないかといった違いはオーストリア学派の言うほど「新古典派」とオーストリア学派の大きな違いなのかどうか、私自身は疑問に思います。オーストリア学派による新古典派批判はリアリティのない戯画的な批判だと思います*18

オーストリア学派の洞察は極めて重要なものが多いと思いますしそれについて学ぶ意義は大きいと思うのですが、規制改革と減税を進めるにはオーストリアンである必要はないと思いますし、新古典派経済学打倒がまず必要なことであるとは思えません。あなたがどんな経済学の支持者であろうと、子育て支援(と称するもの)のために無関係な健康保険料を引き上げるとか、書店を守るためにアマゾンを規制するとかいった政策が経済成長を阻害し既得権を守るだけのおかしな政策であることはわかるでしょう。小さな相違にこだわらず協力して小さな政府を目指す方が実り多いと思います*19

*1:自由主義研究所は、XnoteYoutubeもされていますのでご関心のある方はそちらも是非ご参照ください。このような演説の翻訳活動は大変有益なものと思います。是非ご支援いただければ幸いです。

*2:中絶するかどうかを決めるのは政府ではなく個人です。中絶禁止は政府による個人の選択への介入であり、全くリバタリアン的ではないでしょう。経済学的研究も中絶禁止が効果が乏しいばかりか、犯罪発生率の上昇を招き、女性の地位向上を阻害することを指摘しているものが殆どです。

*3:この点を指摘した論説として以下は大変有益です。Javier Milei: An Illiberal Libertarian? - by David Agren (theunpopulist.net)  Is Javier Milei Making Argentina Great Again? (reason.com)

*4:新古典派については非常な誤解があるのですが、この辺りは長くなるので、簡単な説明は拙著の第7講「新古典派経済学とは何か」などをご覧いただければ幸いです。

*5:これはオーストリア学派の無政府資本主義者マレー・ロスバードなどの系譜をひく考え方です。通常、経済学説史で言う「新古典派経済学」は限界革命以降の主流派経済学を指しているので、新古典派にはオーストリア学派も含まれています。しかし、現代のオーストリア学派は主流派と対立するスタンスをとり、「オーストリア学派新古典派経済学ではない」と主張している場合があります。ミレイ氏もそういう立場です。

*6:市場の失敗としては、大体次の4つを挙げるのが一般的でしょう。

①不完全競争:規模の経済等の理由から市場が競争的でなくなる(独占等)。
②外部性:取引の影響が対価を支払ったり受けとったりしていない誰かに及ぶ。
③公共財:非競合性・非排除性を持つ財(公共財)の供給は過小になる。
④情報の非対称性:市場参加者の間で持っている情報に偏りがある。

*7:ここでいう効率性というのは、ミレイ氏が演説で述べているパレート最適の状態です。「誰も損をせずに誰が得をすることができる」ならば、そのような機会は効率的な市場ではすべて利用されるでしょう。ですから、完全な市場ではパレート改善の機会がない状態=パレート最適の状態に達するはずです。

*8:ミレイ氏は、「これらの難しそうな定義はすべて、国家介入を可能にし、国家主義者や社会主義者の前進を可能にする要素」だと主張していますが、これはCPACだから許される単純化です。

*9:より厳密には新古典派の一部であるシカゴ学派的にはというべきですが、これは現代では主流派と言ってよいですし、敢えてこういう言い方をします。

*10:ミレイ氏は市場の失敗の中から独占の例を集中的に取り上げています。ミレイ氏は、革新的な製品を提供することで自発的に消費者に選ばれた企業であれば、独占はむしろ望ましいものであり、新古典派的な競争市場の描写は間違っていると主張しています。しかし、ミレイ氏は独占の存在を市場の失敗ではないと正当化しようとするあまり、行き過ぎに陥っているように思われます。ミレイ氏の口ぶりでは、あたかも新古典派経済学者は独占をすべて潰して完全競争市場に近づけようとしているかのようですが、ミレイ氏の「新古典派」の描写はあまりに戯画的で現実離れしています。多くの主流派経済学者は技術革新の結果生まれる一時的な独占や潜在的競争圧力がある「コンテスタブルな」市場での独占は問題にならないと考えますし、闇雲な独禁法運用には慎重です。ミレイ氏が論破しようとしているような種類の新古典派経済学者を私は一人として知りません。

ミレイ氏は現実の経済では、収穫逓増がかなり普遍的に成り立つので新古典派モデルは成り立たないと主張しているように思われますが、これは急進的な自由放任主義の支持者としてはいささか奇妙な主張です。確かにそうした経済では独占は一般的ですが、一般に収穫逓増のケースでは市場の失敗が起き、政府の公共財への支出とか保護貿易とか様々な介入主義が有効な場合が理論上あるという結論になるのが普通です。

規模に関して収穫逓増というのは、生産に使う全ての生産要素をX倍にしたときに、産出量がX倍以上に増えるような状況を指します。規模に関して収穫逓増の状況では生産物を作れば作るほど効率が良くなって追加的にかかる費用が下がっていくので、生産量が多い企業が他の企業より安く生産できるようになり、やがて一社の独占になります。このような独占を自然独占と言います。収穫逓増がどの市場でも一般的なら、世界はとっくの昔に独占企業に完全に支配されているでしょう。また、政府が国際競争で自国企業の生産量を増やすような介入をして、世界市場を独占する企業を作り出すとか様々な怪しげな産業政策がもっと成功していていいはずです。現実の独占の規模と産業政策の悲惨な実績から判定すれば、規模の経済は限定的だと考えられます。現実の経済には収穫逓増の産業もあるのは確かですが、それが一般的かというとかなり疑問です。

ミレイ氏の言うように、もし経済全体について収穫逓増が成り立てば、経済全体が1社の独占になるはずです。現実の経済がそうなっていないのは、数学的モデルが間違いだとかそういう話ではなく、現実には、大きすぎる企業は非効率になっていきますから、企業は最適な規模以上には拡大できないし収穫逓増には限界があるということでしょう。そう考えるのが常識的だと思いますし、新古典派はこの点で正しいと考えます。

ミレイ氏は、産業革命以降の経済成長が急激なものだった理由を収穫逓増の法則の結果だと主張し、貧困の減少は「集中構造の存在、すなわち独占の存在」によって可能になったと述べています。「これほど多くの福祉をもたらし、貧困を削減したのであれば、なぜ新古典派理論は独占を悪だと言うのでしょうか?」というのですが、文脈が不明瞭とはいえ、経済全体の収穫逓増と個々の企業の収穫逓増は別の問題ですし、これらを一緒にするのはおかしいはずです。例えば、Romer(1986) のモデル等は良い例ですが、過去に優れたアイデアが生み出されると、その後さらに優れたアイデアが生まれやすいとしましょう。これは経済全体について収穫逓増が成り立つということです。しかし、個々の企業は自社の生み出したアイデアをずっと独占できず、やがて経済全体にアイデアが広がって活用されていくのを阻止できないとします。このようなケースでは、経済全体では規模に関して収穫逓増(経済全体のアイデアのストックが増えれば増えるほどアイデアが生まれやすく経済成長する)でも、個々の企業では収穫逓増は成り立ちません。内生的成長理論ではこういう議論をずっとしていますが(確かにこれは新古典派成長理論と対立すると言おうと思えば言えますが)、これは主流派経済学(「新古典派経済学」と大雑把に言われるもの)に取り入れられて久しい考え方です。

ミレイ氏の主張は、新古典派経済学に照らせば単純化し過ぎのところが少なくありません。例えば、「独占企業に対するもうひとつの批判は、独占企業は経済における生産量を少なくするというものです。しかし、これも誤りです。独占企業が稼いだお金は、明らかに消費に使われ、経済の他の場所で生産と雇用を生み出すことができるからです」と述べていますが、新古典派的枠組みで考えるとこれは明確な誤りです。独占企業は生産量を減らし価格を釣り上げますから生産が過少です。独占の損失は、独占者が価格を釣り上げることで、実現しなかった取引の利益(経済学の専門用語では「死荷重」)になります。ですから、たとえ独占企業が独占利潤をどう使おうが独占の損失は変わりません。余剰分析では、独占者の利潤も余剰の一部と考えるので独占企業が独占利潤をどう処分しても、分配上の違いを除けば余剰の大きさは変わりません。

また、ケインズ経済学批判を独占に絡めてするのはあまり適切とは言えないと思います。ミレイ氏は、独占企業が貨幣を退蔵してデフレを起こせば「経済におけるお金の量は減り、物価は下がり、国民全体が恩恵を受けます。しかも、デフレの恩恵を受けるのは最も所得の低い人々です」というのですが、この主張の裏付けになるような研究を見たことがありません。借金をしている貧しい人はデフレ期には債務負担が重くなりますし、デフレ期には失業者が増えるのが普通です。デフレが低所得者に恩恵をもたらすという説は大恐慌期の日本の身売りの急増、1998-2012年のデフレ期の日本の自殺率等を考えてみれば現実味がないでしょう。オーストリア学派はこういった出来事はデフレのせいではなく、偶々その時期に介入主義が実施されたせいだというのですが、それは無理があると思います。主流派経済学はマイルドなインフレを支持しています。このほか細かいテクニカルな論点についてはいちいち書きませんが、かなり異論がある点が少なくありません。CPAC演説に学術論文のような批判をすべきではないと言われればそれまでですが、やはり、これで新古典派経済学を論破したとは到底言えないでしょう。

*11:このような誰かが消費したからと言ってほかの誰かが消費できる分が減らないような財の性質を非競合性と言います。通常の財は非競合性を持ちません。リンゴを私が食べたなら、他の誰かが私が食べたのと同じリンゴを食べることはできません。

*12:対価を払わずに財を消費する人を排除することが不可能な性質を非排除性と言います。

*13:例えば政府が外国を侵略したり国民を大量に死なせたりするケースがありますから、政府が供給しても国防の供給が効率的に行われない場合があるのは明らかです。公共財を政府が供給するといっても白紙委任状を与えていいという意味ではなく、政府に説明責任を課し、その供給をなるべく効率的にするための努力が必要なのは当然です。

*14:なお、私は警察に関しては軍隊とは違い、そのサービスの殆どは経済学上の公共財ではなく民営化して競争させるべきであると考えております。確かに地域全体の安全の問題は地域公共財的性質を持ちますが、それは地方自治体が地域の安全について会社と契約すれば済む話です。警察が政府機関で特権的地位を持っていることは冤罪が起きやすい状況を生みますし、警察サービス会社同士の競争が有益でないと考えるような理由は何もありません。サンタクララ大学のデイヴィッド・フリードマン名誉教授は警察民営化の議論をしています。幸い、日本語で読める素晴らしい本がありますので関心ある方はご覧ください(これは抄訳ですが、全文も英語ですがネット上から読めます)。私はかなり昔から警察民営化を支持していますが、こういう話は特に専門でもないのでいちいち書かないだけです。

*15:煙を排出する権利が工場にあっても、清浄な空気を使う権利が住民にあっても、取引費用ゼロなどのいくつかの条件の下では、交渉で達成される最適な結果は同じになります。これをコースの定理と言います。

*16:この場合、工場に課税して汚染物質排出の被害分のコストを支払わせることができれば、経済厚生は改善しうるといえます。あるいは排出権の市場を創設するのも一案です。ただ、外部不経済の大きさを把握したり適切な調査をしたりする政府の能力には疑問符が付きますし、場合によっては政府の失敗の方が大きい可能性があります。その場合は不完全でも市場に任せる方がよいと言えます。二つの不完全な選択肢のうち、その方がましだからです。無論、これは市場か政府かの二者択一ではなく、○○の部分には政府が介入するが、それ以外は市場に任せるなどさまざまなバリエーションがありえます。

*17:これは今回は詳しく説明しませんが、情報の非対称性の例です。

*18:サンタクララ大学のデイヴィッド・フリードマン名誉教授は20世紀を代表する偉大な経済学者ミルトン・フリードマンの息子で自身も著名なリバタリアンの経済学者ですが、主流派経済学(新古典派経済学)に対する一部のオーストリア学派の執拗な攻撃についてやや皮肉な調子で次のように述べたことがあります。「私はリバタリアニズムにおける“オーストリア学派”ビジネスは、概して製品差別化の問題だと考えている。新古典派の伝統の異なる分派からその思想を得た人たちの間では、強調する点が異なっている。しかし、その違いが本質の違いになるのは、彼らが自分自身の立場(オーストリア学派)の極端な見方をするか、もう一方の立場(主流派)について極端な見方をするかのどちらか、あるいは両方をとった場合だけである。オーストリア学派の極端な見方は擁護可能なものだとは思わないし、主流派の極端な見方は(現実の主流派の描写として)正しいとは思わない」(デイヴィッド・フリードマンのブログ,2013年11月10日)。これは辛らつかもしれませんが、妥当な指摘ではないでしょうか。今でこそオーストリア学派の経済学者の多くが新古典派、主流派を目の敵にしていますが、元々、オーストリア学派新古典派の一部であり、そもそも主流派の一部と認識されていました。新古典派との強烈なブランドの差別化がなされたのはオーストリア学派の経済学者のリーダー的存在であるミーゼスやハイエクが1940-1950年代に米国に移ってからのことで、そうした路線を過激に進めたのはミーゼスの弟子のロスバードのようなオーストリア学派の経済学者の一部だけです。

*19:オーストリア学派と主流派の間には金融政策をめぐる見解の相違もありますが、日本の現状ではこれは現在優先順位が高い課題だとは思えません。なお、CPAC演説でミレイ氏はデフレの価値を称賛していますが、アルゼンチンの最近の金融政策を見ると、ドル化という公約はどこかへ行ってしまい、強い言葉とは裏腹に大インフレを助長しかねない金融緩和への逆戻りが起きつつあるように見えます。アルゼンチンの現状からは当面引き締め的な金融政策が妥当なはずです。今の動きが一時的であればよいのですが。