経済学は新しい科学ですから、専門家の間でも意見の相違はあります。しかし、単なる意見の違いでは片づけられない文句なしの間違いもあります。
5月24日に「日本円がトルコリラを下回り世界最弱通貨になった」と主張する米ブルッキングス研究所のロビン・ブルックス氏のX(旧ツイッター)の投稿が話題になりました。ブルックス氏は、これは、膨大な政府債務のために日銀が利上げできないことの直接的結果だと主張しています。
ブルックス氏の投稿は大きな反響を呼び、多くの経済評論家から賞賛されました。27日の日経新聞朝刊も早速この投稿を取り上げ、次のような記事を書いています。
日本円、「最弱」トルコに見劣り 購買力の低下に原油高が拍車 - 日本経済新聞
なるほど、日本が極端なインフレに苦しむトルコ以下という話は面白いでしょう。飛びつきたくなるのはよくわかります。日経の記事は、「円、「最弱」トルコに見劣り」「購買力低下止まらず」と危機感を煽る見出しを掲げていました。きっとこういう煽り方をすれば、たくさんの人が読むのでしょう。しかしながら、ブルックス氏の主張は、何学派がどうとか以前の問題で、明確に間違った主張です。
一言でいえば、①実質実効為替レートはそもそも円やトルコリラの価値を表すものではなく、②指数であらわされた比較不可能な数値の絶対水準を比較するのは議論の余地のないナンセンスであり、③ブルックス氏のグラフは恣意的に作図されたものだからです。これらは新古典派とかケインズ派とかなんとか学派とか以前の問題です。順番に見ていきましょう。
①(1)実質実効為替レートは財・サービスの相対価格であり「円の実力」ではない
日経は盛んに実質実効為替レートのことを「円の実力」という妙な呼び方で呼ぶ癖があるのですが、この記事でも実質実効為替レートが円の実力であると説明しています。これは実質実効為替レートとは何か全く理解していないとしかいいようがありません。
実質実効為替レートとは何かですが、これは、名目為替レートと実質為替レートの違い、実効為替レートとは何かを理解する必要があります(少々面倒ですが、わかってしまえば簡単なことですから、お付き合いください)。
名目為替レートというのは、1ドル=○○円といった自国通貨と外貨の交換比率、外貨の値段です。これは私たちに一番なじみのある指標です。
これに対して、実質為替レートというのは、自国の財・サービスの価格と外国の財・サービスの価格を比較したものです。この指標でわかるのは 同じ財・サービスを外国と自国で購入した場合どちらが相対的に有利かです。
米国の物価をP*,日本の物価をPであらわし、日米名目為替レートをeであらわす(1ドル=160円ならe=160です)ことにしましょう。実質為替レートというのは、同じ財・サービスを日本で買った場合と米国で買った場合と平均的にどちらが安いかを比較したものです。 日本で買った場合の価格はPです。米国で買った場合の価格を日本円に直すとe×P*(為替レート×米国のドル価格)になりますね。もしもPのほうがeP*より低ければ、平均的に米国で買うより日本で買う方が財・サービスは安いということになります。 日米の実質為替レートをεであらわすと、実質為替レートは次の式であらわされます。
ε=eP*/P (実質為替レートの定義式)
普通はP、P* にはある基準時点を100にした物価指数を使います。これは形式的には名目為替レートに自国と外国の物価の比率をかけたものですが、通貨の価値を表す名目為替レートとは根本的に異なる指標です。実質為替レートは、財・サービスの外国と自国の相対価格を表しています。だから、実質為替レートには、名目為替レートとは異なり、円とかドルとかいった貨幣の単位はそもそもないのです。
ちょっと抽象的ですから、数値例で確認してみましょう。例えば、日米の名目為替レートが1ドル=160円で、米国で10ドルで買える1杯のコーヒーが日本では1000円で買えるとしましょう(単純化のため、コーヒー以外の生産物を考えないことにします)。この場合、米国のコーヒーは日本円に直すと1600円です。
名目為替レート(160円)×コーヒーの米国価格(10ドル)=1600円
日本では同じコーヒーが1000円で買えるのですから、日本の方が相対的に安く買えます。実質為替レートは1600円/1000円=1.6になります。これは米国では財が日本よりも1.6倍高いということをいっているのであって、1.6の単位は円でもドルでもないのは自明でしょう。実質為替レートというのは、このような外国と比較した日本の財の相対的な安さを見る指標なのです。ここではわかりやすいようにコーヒーという具体的な財の価格を例にしましたが、実際には日米の特定の年を基準にした物価指数(例:2020年の生計費を100にして2026年は生計費がどれくらい高いか)を使って計算します。
これで名目と実質の区別ができましたから、次は実効為替レートとは何か説明しましょう(幸いこちらはそう難しくありません)。これまでは円とドルという2つの通貨を問題にしてきましたが、日本の貿易相手国は米国だけではありません。中国とか韓国とかユーロ圏との取引では人民元、ウォン、ユーロが問題になりますね。1つの通貨だけでなく、複数の貿易相手国の為替レートを貿易取引額で加重平均したものを名目実効為替レートといいます。名目実効為替レートは自国通貨の総合的な価値を表しているということができます。これに対して、実質実効為替レートは、自国と外国の財・サービスの相対価格を貿易取引額で加重平均したものです。要するに、日本の実質実効為替レートとは、日本の貿易相手国の財・サービスの価格と比較した日本の財・サービスの 相対的な 価格を表すものです。貿易相手国 の財・サービス一単位と日本の財サービス何単位を交換できるかを表しています。実質実効為替レートは、実質為替レートの加重平均ですから当然ですが、この指標には円とかドルとかいった単位はありません。
日経は実質実効為替レートを「円の実力」と呼びたがりますが、これは控えめに言ってもかなりミスリーディングなのは明らかでしょう。実質実効為替レートは自国と外国の財・サービスの相対価格を表すものであり、円とかトルコリラとかいった通貨の強さや弱さの指標ではそもそもないのです。
①(2):金融政策は中長期的な実質実効為替レートに影響しない
ブルックス氏も日経も過剰な金融緩和が通貨の「実力」の低下の原因だといいたいようです。しかし、 金融緩和をすれば実質実効為替レートが自国通貨安になるとは限りません。 短期的にはともかく、中長期的には、実質実効為替レートは金融政策と無関係な実物的要因で決まります。金融政策は中長期的には実質実効為替レートに対して中立です。 なぜなら、金融緩和は名目為替レートを自国通貨安にしますが、自国の物価を上昇させる効果を持っているからです。両者の効果は相殺されるので、実質実効為替レートは長期的には金融政策によって影響されません。 これは、長期的な貨幣の中立性という経済学の常識から導かれる当然の結論です。
日経は「トルコはインフレが続く中でも中央銀行が緩和的な金融政策を取ったことで通貨の信認が低下し通貨安が慢性化した。市場関係者の間で最弱通貨と認識されてきた」と述べていますが、それはトルコリラの名目為替レートの話です。実質実効為替レートの話と混同するべきではありません。
例えば、エルドアン大統領の圧力でトルコ中銀が経済が過熱しているにもかかわらず、さらなる利下げに踏み切ったとしましょう。当然ながら、低金利のトルコリラは売られてトルコリラの名目為替レートは下落するでしょう。短期的にはトルコの物価はすぐ変化しません。だから、実質為替レートε=eP*/P*1 はトルコリラ安になります。トルコ製品は相対的に割安になりますから、輸出に有利に働くことになるでしょう*2 。もしこれが永久に続けられるなら、金融緩和をするだけで実質輸出をどんどん増やし実質GDPを拡大できることになります。ですが、そんな都合の良い話はありません。金融政策による実質為替レートの下落は一時的です。過度な金融緩和でトルコ経済が過熱すればやがて物価が上昇しますから、トルコの物価P上昇により、名目為替レートeのトルコリラ安は相殺されます。要するに、名目ではトルコリラ安だとしても、トルコの物価が高くなっているので、トルコの輸出は有利にはならないのです。長期的なトルコリラの実質為替レートは金融政策とは無関係です。
事実、トルコ・リラはドルなど他国通貨に対して価値が暴落し続けている通貨ですが、同時に起きている極端なインフレによりトルコ・リラの実質実効為替レートは安定しています。名目実効為替レートでみるとトルコリラは暴落し続けていますが、トルコの物価も大暴騰しているためトルコ製品は相対的に割安とは言えません。2020年を基準にしたBISの名目実効為替レートでは、トルコ・リラは64か国中2番目に下落率の大きい通貨ですが、実質実効為替レートだと、2020年以降25番目に上昇率が高い通貨です。実質実効為替レートでみた場合は「世界最弱」でもなんでもありません。同様に、アルゼンチン・ペソは名目実効為替レートでみると2020年以降最も下落率の大きい通貨ですが、実質実効為替レートでみると2020年以降で世界で一番上昇率の高い通貨になります。
出所:IMF
出所:BIS
出所:BIS
トルコを例にとりましたが、日本の場合も同じです。日銀の金融緩和で円安だというのは名目為替レートについては妥当な指摘ですし、実質為替レートについても短期的にはそうに違いないですが、中長期的には実質実効為替レートの下落は日銀の金融政策とは無関係です。1990年代半ば以降、現在まで長期的に続いている趨勢的な実質実効為替レートの下落傾向を金融政策の影響に帰するのは無理があります。実質実効為替レートを決めるのは、長期的には実物的要因のみです。日本の実質実効為替レートの趨勢的な低下は日本の交易条件の悪化や貿易財産業の相対的な生産性の低下など実物的要因で説明するのが妥当で、金融政策の責任にするのはお門違いでしょう*3 。
「円の実力」というのはだれが言い出したかわかりませんが、そもそも日本語としても意味不明です。「実力」というからには、円の見せかけの力とか本当でない力が何かあって、それと対比して実力といっているはずだと思いますが、一体それは何でしょうか。実力がない通貨はダメだということになりますから、実力があればあるほどいいのでしょうか?実質実効為替レートを円の実力と呼んでも誤解を生むだけで何も良いことはありません。わけのわからない言葉は使う必要がありません。いや、むしろ使うべきではないというべきでしょう。
②実質実効為替レートの国同士の値の比較は無意味である
日本円がトルコリラに実質実効為替レートで負けた最弱の通貨だなどという主張は、そもそも実質実効為替レートというデータの意味を誤解したものだということはわかっていただけたかと思いますが、ブルックス氏のデータ解釈はそれ以上に問題だらけです。
ブルックス氏はトルコリラと日本円の実質実効為替レートを比較しています。使われているのは2014年6月=100とする指数です*4 。なるほど、図だけを見ると、日本円がトルコリラに今年に入って負けているように見え、世界最弱の通貨だという主張がもっともらしく見えます。
しかし、これは実質実効為替レートというのは何か誤解しているだけでなく、そもそも絶対に比較できないものを比較しているという点でまったくナンセンスな比較です。実質実効為替レートは基準年を100とする指数です。基準年にはそもそもすべての国が同じ100という値になります。このデータは、 例えば2000年と比較して、2026年の日本の財・サービスの相対価格が外国と比較して上がったか下がったかを分析することはできますが、他の国の実質実効為替レートの水準と比較して高いか低いかというのは全く意味がありません。 貿易相手国は国によって違いますから、加重平均する通貨のウェイトは国によってバラバラですし、そもそも基準年をどこにするかで数字は変わります 。国同士の水準を比較するのは完全に間違った使い方です。
少しわかりにくいかもしれませんから、このような指数の水準の比較がいかにばかげているかわかりやすい例で示しましょう。Aはある大学の文系の学生で、Bは別の大学の理系の学生だとします。2人のテストの平均点は次の通りであったとしましょう。 Aは2020年に90点、2026年に80点 Bは2020年に60点、2026年に66点 2020年を基準年にした指数で表すとどうなるでしょうか?
2020
2026
A
100
88.9
B
100
110
おわかりだと思いますが、この場合、「2026年にBがAを追い越している」というのは全く意味がある話ではありません。そもそも比較できない成績のデータですが、指数の水準自体を比較するのは完全に馬鹿げています。
同じデータを2026年を基準年にした指数であらわしてみましょう。
2020
2026
A
112.5
100
B
90.9
100
今度は「2026年にAとBの成績は等しい水準に収れんした」とかいう評論家が現れそうですが、もちろんそういう言い方もナンセンスです*5 。2026年を100にした指数ですから2026年が100になるのは当たり前です。ブルックス氏が日本円がトルコリラに負けたとか言っているのは、この馬鹿馬鹿しい成績の比較とまったく同じです。これは経済理論がどうとかいう問題以前の笑うべき間違いであり、議論の余地がないものです。
実は日経の記事にはこの点を指摘した正しいことも一応は書かれています。
実効レートはある国・地域の通貨について基準年と比較して購買力がどの程度上下しているかを示す指標だ。算出方法も多様で通貨同士で絶対値*6 を比較することの是非については異論が多い。
しかし、ここまで言っていながら、日経の記事は、結局、トルコリラの実質為替レートは上昇しているのは明らかだなどとごまかして、日本が最弱だというセンセーショナルなブルックス氏の主張を肯定する残念な記事になっています。「異論が多い」どころではなくナンセンスだとはっきり書くべきでしょう。
③ブルックス氏のデータは恣意的である
ところで、実質実効為替レートは国際決済銀行(BIS)が公表しているデータを使うのが一般的ですが、BISの基準年は2020年です。ブルックス氏の加工しているデータも元データは明らかにBISのデータです。普通にグラフを作図すれば、2020年が100の指数を使うはずです。しかし、既に指摘した点ですが、何故かブルックス氏のデータは2014年6月を100にした指数です。これほど中途半端で訳の分からない基準をブルックス氏が採用した理由は不明です。一体何の基準なんでしょうか。
2014年6月を基準にしたデータでは日本円とトルコリラが逆転するのは直近(2026年4月)になりますが、2020年を基準にしたデータをとってみると、そこまで劇的なデータにはなりません。そもそも日本円とトルコリラの実質実効為替レートの絶対的な水準を比較するのはナンセンスだということはおいておいても(まあ、これだけで完全に問題外ですが)、ブルックス氏の選んだ基準時点は極めて恣意的で合理的説明が不可能です。
好意的に解釈するなら、ブルックス氏はたまたま基準時点を2014年6月にしているデータを見かけて、データの意味を理解できずに絶対水準を比較し、おかしな結論を出したのだと考えることもできます。それも大いにありうるでしょう。いずれにせよ、ブルックス氏が何の意味もない比較をしていることに変わりはありません。
日本円とトルコリラの実質実効為替レートの水準は、基準年をどこに置くかでお気に召すまま、好きなようなグラフを作ることが出来ます。そもそも絶対水準の比較自体が無意味なのですが、それにしてもブルックス氏の論説は実にひどいとしか言いようがありません。自信満々に日本経済を語っておられますが、肩書がどうであれ、ブルックス氏の論説は経済学の専門家として基本的な知見に欠けています。
出所:BIS
出所:BIS
出所:BIS
ここまで読んでいただいた皆さんは、ブルックス氏の説明が議論の余地のない間違いであることはわかっていただけたかと思います。日本円の実質実効為替レートが下落し続けている原因は何かということについては意見の相違がありますし日本の望ましい金融政策とは何かについても議論はあります。意見の相違はいろいろあって結構でしょう。ですが、ここに書いたことは経済学の学派とか理論とかに関係ない議論の余地のない誤りです。ブルックス氏の主張をもてはやした方々は一律に全く信頼できない評論家だと断定して構いません。反リフレ派だろうがリフレ派だろうがMMTだろうが、ブルックス氏の論説を称えた方々は単なる印象で経済をかたる「印象派」経済学者に過ぎないのです*7 。