柿埜真吾のブログ

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市場の失敗をめぐる論争

アルゼンチンのミレイ大統領の言動はリバタリアンの熱い注目を集めていますが、彼が今年2月に米国の「保守政治行動会議(CPAC)」で行った演説は、オーストリア学派経済学のマニフェストというべき内容で大きな話題になりました。

自由主義経済学について紹介しておられる自由主義研究所*1のサイトにこの演説の素晴らしい翻訳がありますので、ぜひご覧ください。

「自由のための戦いを諦めてはいけない」~ミレイ大統領CPAC演説全文 |自由主義研究所 (note.com)

演説はCPACのような政治集会にはやや不似合いとも思える理論的内容ですが、オーストリア学派経済学者としてのミレイ氏の信念を知る上で非常に興味深い演説です。最近のCPACは反グローバリズム陰謀論をもてはやすMAGA(トランプ支持者)の集会になりがちなのですが、自由貿易の意義を堂々と訴えているあたりは立派だと思いました。ミレイ氏の演説はこの他にも産業革命以降の自由市場がもたらした経済成長こそ人類の貧困を大きく減らしたことを指摘している点など有益な指摘が多いと言えます。

ただ、その一方で些か心配になる部分があるのも確かです。例えば、地球温暖化に関する根拠の乏しい発言や中絶を社会主義と結びつけ「中絶という殺人的な政策」の起源を聖書の嬰児殺しに求める陰謀論的な発言等です*2。CPACでは、ミレイ氏は米国のトランプ前大統領と親しさをアピールしていましたが、政治は妥協の産物とはいえ、権威主義的な文化保守主義との接近には危うさを感じます*3

ここでは、ミレイ氏のCPACの演説の経済学に関する部分について(その内容の多くには賛成であるということをお断りした上で)、私が賛成できなかった点を取り上げたいと思います。この演説で非常に興味深かったのは、ミレイ氏が論敵として社会主義共産主義よりもむしろ専ら新古典派経済学を集中的に批判していた点です。

新古典派経済学とその「市場の失敗」に対する見方が、いかに社会主義の前進を促進しているか、そしてそれがいかに幸福の向上と貧困との闘いにブレーキをかけ、経済成長を破壊しているかに焦点を当てて話そうと思います。

新古典派経済学」というと*4、一般には「市場原理主義」であるといった誤解が多いのですが、ミレイ氏は新古典派経済学の「市場の失敗」の考え方こそが政府介入を正当化し大きな政府社会主義につながる元凶だと主張しています*5

確かに、新古典派経済学は競争市場の効率性を主張する一方で、市場がうまく機能しない「市場の失敗」のケースでは政府の介入が経済厚生を改善しうると主張しています*6

通常のケースでは、市場は自発的交換のプロセスですからお互いに得をしないような取引は起きません。自分がわざわざ損をする取引をする人はいません。市場がもたらす結果はだから通常は効率的なのです*7。ただ、市場に少数の独占的取引相手しかいない場合や、取引に参加しない第三者に悪影響が及ぶ場合(外部不経済)、あるいは取引参加者の持つ情報に偏りがある場合(中古車市場で売り手は品質を知っているが、買い手は分からないような場合)等には、市場取引が最適な結果につながらない場合があります。これがいわゆる市場の失敗です*8

しかし、新古典派*9には市場の失敗があるからと言って、政府が介入しさえすればいいという話にはなりません。政府の失敗も深刻な問題だからです。政府の失敗が酷い場合は、市場の失敗があっても政府が介入しない方がまだましということはあり得ます(思うに、大半のケースではそうでしょう)。結局、その場合は不満足な選択肢の中からよりましな解決策を選ぶしかないというのが一般的な考え方ですし、私自身この立場です。

ところが、オーストリア学派的には、こういう新古典派経済学の微温的立場は我慢のならないものだということになるようです。ミレイ氏によれば、市場は自発的な協力に基づく交換なので、それが当事者にとって悪い結果をもたらすことはあり得ません。ミレイ氏は新古典派を論難し、次のように述べています。

市場とは社会的協力のプロセスであり、そこでは財産権が自発的に交換されます。
実際、交換は自発的なものであるため、市場の失敗について話すことは不可能です。
なぜなら、自虐的な行動をする人はいないからです。
したがって、市場を適切に定義すれば、介入の定義はすべて崩れます。

彼の主張は説得的でしょうか。「新古典派」をどう定義するかによりますが、主流派経済学への批判という意味ではそうは言えないと思います*10

私は市場は多くの場合うまくいくし、問題が起きるのは大抵は政府の介入のせいだと思いますが(例えば多くの独占は政府の支援なしに成立しなかったと思いますが)、市場がいつも完璧だとは思いません。例えば、国防を考えてみましょう。自衛隊が民間企業で、北朝鮮のミサイルからの防衛サービスを提供しているとします。私がそのサービスを買ったとしましょう。この場合、私の周りに住んでいる方は全員が自動的に北朝鮮のミサイルから守られることになるでしょう。自衛隊が私以外の人を守るために追加的に必要になるコストは何もありません*11。これ自体は結構なことですが、厄介な問題があります。自衛隊からサービスを買っても買わなくてもどうせ守ってもらえるのですから、多くの住民は費用を払わずに自衛隊のサービスにただ乗りしようとするでしょう。そうなれば、自衛隊は費用を賄えずに倒産してしまいます。自衛隊が対価を払っている住民以外が守られないように、サービスを購入していない住民を排除することが可能なら話は別ですが、通常それは効率的ではない上に著しく困難です*12。市場で国防サービスが取引されているような場合、結果は著しく非効率で、危なっかしいものになるでしょう。このようなタイプの財を公共財と言います。私自身は公共財はごく少数しかなく、それも民間で供給したほうが政府に供給させるよりもうまくいく場合も多いと思いますが、そういう財が絶対にないとは思いませんし、国防は政府が供給すべきだろうと思います。無論、国による公共財供給にしても効率的でないのが普通で無駄は発生しますが*13、市場で供給するのが著しく困難で大きな問題が発生する場合は政府が供給するのがまだましである場合があるでしょう。もちろん、ミレイ大統領も政治家をやっているのですから、少なくとも今のところは政府は必要ないとまでは考えておられないわけです*14

次の例として、工場の煙が洗濯物を汚したり健康に被害を出したりする典型的な外部不経済の状況を考えましょう。工場を持つ企業とその生産物の消費者との間には、互恵的な取引が成立しています。しかし、その副産物として生まれた公害に対して、工場所有企業は費用を払っていません。この結果、第三者の被害を考慮しない工場の煙の排出は過大になります。これが外部不経済です。

オーストリア学派的には、これは清浄な空気を所有する住民の所有権が工場に侵害されているのであり、市場が存在しないからこそ問題が起きるのだということになるでしょう。市場はあくまで失敗しないのだ、と。

確かに煙害の”市場”が存在すれば話は変わってきます。工場が1社で、被害を受けている住民がその工場を特定できるような場合なら、所有権が明確に定義されていれば両者の自発的交渉で望ましい結果が達成できます*15。しかし、通常はどの工場から出た煙で健康を害しているかとか洗濯物が汚れたのはどの工場の煙のせいかなどを特定するのは困難で、被害者住民が全員で集まったり工場と交渉に行ったりするコストもバカにならないのが普通です。このようなケースでは、確かに厳密には「市場がない」というべきですが、「市場に任せてもうまくいかない」といってもかまわないでしょう。市場が失敗しているからと言って政府の介入がうまくいく保障はありませんが*16、少なくとも、市場に任せた結果は改善の余地があり最善でないとは言えるでしょう。

とはいえ、市場は完全ではなく失敗しうるというのは、別に政府万能を意味しません。皆さんは品質の怪しげな商品を買わされた経験が一度や二度はあるでしょう*17。他の産業に比べてより劣った満足のいかない市場というものも知っていると思います。市場の失敗を議論する経済学者は単にその現実を認めているだけです。市場について現実的だからと言って、何もそれは社会主義計画経済を肯定することにはつながりません。

政府について幻想を持たず、現実の姿をありのままに見てみましょう。世の中には、市場は現実的に見るのに、政府は非現実的な理想の姿で見る人もいますが、まともな経済学者はそういうナイーブな見方はとりません。政府も市場も現実的に考えます。公共選択論という分野では、政治市場を他の市場と同じように分析し、政府の失敗を分析しています。政治市場ほど失敗の多い市場はないでしょう。少数の政党による寡占市場で、有権者と政治家には情報の非対称性があり、政治家と官僚にも情報の非対称性がある等々…こんな欠陥だらけな市場はなかなかありそうにありません。政治家や官僚が天使でないことは皆さんもご存じでしょう。政治について現実的に考えれば、政府に何でも任せるべきだという結論は決して出てきません。むしろ殆どのケースでは、たとえ不完全であっても市場に任せる方が遥かにましなのは明らかです。

市場の失敗を認めるか認めないかといった違いはオーストリア学派の言うほど「新古典派」とオーストリア学派の大きな違いなのかどうか、私自身は疑問に思います。オーストリア学派による新古典派批判はリアリティのない戯画的な批判だと思います*18

オーストリア学派の洞察は極めて重要なものが多いと思いますしそれについて学ぶ意義は大きいと思うのですが、規制改革と減税を進めるにはオーストリアンである必要はないと思いますし、新古典派経済学打倒がまず必要なことであるとは思えません。あなたがどんな経済学の支持者であろうと、子育て支援(と称するもの)のために無関係な健康保険料を引き上げるとか、書店を守るためにアマゾンを規制するとかいった政策が経済成長を阻害し既得権を守るだけのおかしな政策であることはわかるでしょう。小さな相違にこだわらず協力して小さな政府を目指す方が実り多いと思います*19

*1:自由主義研究所は、XnoteYoutubeもされていますのでご関心のある方はそちらも是非ご参照ください。このような演説の翻訳活動は大変有益なものと思います。是非ご支援いただければ幸いです。

*2:中絶するかどうかを決めるのは政府ではなく個人です。中絶禁止は政府による個人の選択への介入であり、全くリバタリアン的ではないでしょう。経済学的研究も中絶禁止が効果が乏しいばかりか、犯罪発生率の上昇を招き、女性の地位向上を阻害することを指摘しているものが殆どです。

*3:この点を指摘した論説として以下は大変有益です。Javier Milei: An Illiberal Libertarian? - by David Agren (theunpopulist.net)  Is Javier Milei Making Argentina Great Again? (reason.com)

*4:新古典派については非常な誤解があるのですが、この辺りは長くなるので、簡単な説明は拙著の第7講「新古典派経済学とは何か」などをご覧いただければ幸いです。

*5:これはオーストリア学派の無政府資本主義者マレー・ロスバードなどの系譜をひく考え方です。通常、経済学説史で言う「新古典派経済学」は限界革命以降の主流派経済学を指しているので、新古典派にはオーストリア学派も含まれています。しかし、現代のオーストリア学派は主流派と対立するスタンスをとり、「オーストリア学派新古典派経済学ではない」と主張している場合があります。ミレイ氏もそういう立場です。

*6:市場の失敗としては、大体次の4つを挙げるのが一般的でしょう。

①不完全競争:規模の経済等の理由から市場が競争的でなくなる(独占等)。
②外部性:取引の影響が対価を支払ったり受けとったりしていない誰かに及ぶ。
③公共財:非競合性・非排除性を持つ財(公共財)の供給は過小になる。
④情報の非対称性:市場参加者の間で持っている情報に偏りがある。

*7:ここでいう効率性というのは、ミレイ氏が演説で述べているパレート最適の状態です。「誰も損をせずに誰が得をすることができる」ならば、そのような機会は効率的な市場ではすべて利用されるでしょう。ですから、完全な市場ではパレート改善の機会がない状態=パレート最適の状態に達するはずです。

*8:ミレイ氏は、「これらの難しそうな定義はすべて、国家介入を可能にし、国家主義者や社会主義者の前進を可能にする要素」だと主張していますが、これはCPACだから許される単純化です。

*9:より厳密には新古典派の一部であるシカゴ学派的にはというべきですが、これは現代では主流派と言ってよいですし、敢えてこういう言い方をします。

*10:ミレイ氏は市場の失敗の中から独占の例を集中的に取り上げています。ミレイ氏は、革新的な製品を提供することで自発的に消費者に選ばれた企業であれば、独占はむしろ望ましいものであり、新古典派的な競争市場の描写は間違っていると主張しています。しかし、ミレイ氏は独占の存在を市場の失敗ではないと正当化しようとするあまり、行き過ぎに陥っているように思われます。ミレイ氏の口ぶりでは、あたかも新古典派経済学者は独占をすべて潰して完全競争市場に近づけようとしているかのようですが、ミレイ氏の「新古典派」の描写はあまりに戯画的で現実離れしています。多くの主流派経済学者は技術革新の結果生まれる一時的な独占や潜在的競争圧力がある「コンテスタブルな」市場での独占は問題にならないと考えますし、闇雲な独禁法運用には慎重です。ミレイ氏が論破しようとしているような種類の新古典派経済学者を私は一人として知りません。

ミレイ氏は現実の経済では、収穫逓増がかなり普遍的に成り立つので新古典派モデルは成り立たないと主張しているように思われますが、これは急進的な自由放任主義の支持者としてはいささか奇妙な主張です。確かにそうした経済では独占は一般的ですが、一般に収穫逓増のケースでは市場の失敗が起き、政府の公共財への支出とか保護貿易とか様々な介入主義が有効な場合が理論上あるという結論になるのが普通です。

規模に関して収穫逓増というのは、生産に使う全ての生産要素をX倍にしたときに、産出量がX倍以上に増えるような状況を指します。規模に関して収穫逓増の状況では生産物を作れば作るほど効率が良くなって追加的にかかる費用が下がっていくので、生産量が多い企業が他の企業より安く生産できるようになり、やがて一社の独占になります。このような独占を自然独占と言います。収穫逓増がどの市場でも一般的なら、世界はとっくの昔に独占企業に完全に支配されているでしょう。また、政府が国際競争で自国企業の生産量を増やすような介入をして、世界市場を独占する企業を作り出すとか様々な怪しげな産業政策がもっと成功していていいはずです。現実の独占の規模と産業政策の悲惨な実績から判定すれば、規模の経済は限定的だと考えられます。現実の経済には収穫逓増の産業もあるのは確かですが、それが一般的かというとかなり疑問です。

ミレイ氏の言うように、もし経済全体について収穫逓増が成り立てば、経済全体が1社の独占になるはずです。現実の経済がそうなっていないのは、数学的モデルが間違いだとかそういう話ではなく、現実には、大きすぎる企業は非効率になっていきますから、企業は最適な規模以上には拡大できないし収穫逓増には限界があるということでしょう。そう考えるのが常識的だと思いますし、新古典派はこの点で正しいと考えます。

ミレイ氏は、産業革命以降の経済成長が急激なものだった理由を収穫逓増の法則の結果だと主張し、貧困の減少は「集中構造の存在、すなわち独占の存在」によって可能になったと述べています。「これほど多くの福祉をもたらし、貧困を削減したのであれば、なぜ新古典派理論は独占を悪だと言うのでしょうか?」というのですが、文脈が不明瞭とはいえ、経済全体の収穫逓増と個々の企業の収穫逓増は別の問題ですし、これらを一緒にするのはおかしいはずです。例えば、Romer(1986) のモデル等は良い例ですが、過去に優れたアイデアが生み出されると、その後さらに優れたアイデアが生まれやすいとしましょう。これは経済全体について収穫逓増が成り立つということです。しかし、個々の企業は自社の生み出したアイデアをずっと独占できず、やがて経済全体にアイデアが広がって活用されていくのを阻止できないとします。このようなケースでは、経済全体では規模に関して収穫逓増(経済全体のアイデアのストックが増えれば増えるほどアイデアが生まれやすく経済成長する)でも、個々の企業では収穫逓増は成り立ちません。内生的成長理論ではこういう議論をずっとしていますが(確かにこれは新古典派成長理論と対立すると言おうと思えば言えますが)、これは主流派経済学(「新古典派経済学」と大雑把に言われるもの)に取り入れられて久しい考え方です。

ミレイ氏の主張は、新古典派経済学に照らせば単純化し過ぎのところが少なくありません。例えば、「独占企業に対するもうひとつの批判は、独占企業は経済における生産量を少なくするというものです。しかし、これも誤りです。独占企業が稼いだお金は、明らかに消費に使われ、経済の他の場所で生産と雇用を生み出すことができるからです」と述べていますが、新古典派的枠組みで考えるとこれは明確な誤りです。独占企業は生産量を減らし価格を釣り上げますから生産が過少です。独占の損失は、独占者が価格を釣り上げることで、実現しなかった取引の利益(経済学の専門用語では「死荷重」)になります。ですから、たとえ独占企業が独占利潤をどう使おうが独占の損失は変わりません。余剰分析では、独占者の利潤も余剰の一部と考えるので独占企業が独占利潤をどう処分しても、分配上の違いを除けば余剰の大きさは変わりません。

また、ケインズ経済学批判を独占に絡めてするのはあまり適切とは言えないと思います。ミレイ氏は、独占企業が貨幣を退蔵してデフレを起こせば「経済におけるお金の量は減り、物価は下がり、国民全体が恩恵を受けます。しかも、デフレの恩恵を受けるのは最も所得の低い人々です」というのですが、この主張の裏付けになるような研究を見たことがありません。借金をしている貧しい人はデフレ期には債務負担が重くなりますし、デフレ期には失業者が増えるのが普通です。デフレが低所得者に恩恵をもたらすという説は大恐慌期の日本の身売りの急増、1998-2012年のデフレ期の日本の自殺率等を考えてみれば現実味がないでしょう。オーストリア学派はこういった出来事はデフレのせいではなく、偶々その時期に介入主義が実施されたせいだというのですが、それは無理があると思います。主流派経済学はマイルドなインフレを支持しています。このほか細かいテクニカルな論点についてはいちいち書きませんが、かなり異論がある点が少なくありません。CPAC演説に学術論文のような批判をすべきではないと言われればそれまでですが、やはり、これで新古典派経済学を論破したとは到底言えないでしょう。

*11:このような誰かが消費したからと言ってほかの誰かが消費できる分が減らないような財の性質を非競合性と言います。通常の財は非競合性を持ちません。リンゴを私が食べたなら、他の誰かが私が食べたのと同じリンゴを食べることはできません。

*12:対価を払わずに財を消費する人を排除することが不可能な性質を非排除性と言います。

*13:例えば政府が外国を侵略したり国民を大量に死なせたりするケースがありますから、政府が供給しても国防の供給が効率的に行われない場合があるのは明らかです。公共財を政府が供給するといっても白紙委任状を与えていいという意味ではなく、政府に説明責任を課し、その供給をなるべく効率的にするための努力が必要なのは当然です。

*14:なお、私は警察に関しては軍隊とは違い、そのサービスの殆どは経済学上の公共財ではなく民営化して競争させるべきであると考えております。確かに地域全体の安全の問題は地域公共財的性質を持ちますが、それは地方自治体が地域の安全について会社と契約すれば済む話です。警察が政府機関で特権的地位を持っていることは冤罪が起きやすい状況を生みますし、警察サービス会社同士の競争が有益でないと考えるような理由は何もありません。サンタクララ大学のデイヴィッド・フリードマン名誉教授は警察民営化の議論をしています。幸い、日本語で読める素晴らしい本がありますので関心ある方はご覧ください(これは抄訳ですが、全文も英語ですがネット上から読めます)。私はかなり昔から警察民営化を支持していますが、こういう話は特に専門でもないのでいちいち書かないだけです。

*15:煙を排出する権利が工場にあっても、清浄な空気を使う権利が住民にあっても、取引費用ゼロなどのいくつかの条件の下では、交渉で達成される最適な結果は同じになります。これをコースの定理と言います。

*16:この場合、工場に課税して汚染物質排出の被害分のコストを支払わせることができれば、経済厚生は改善しうるといえます。あるいは排出権の市場を創設するのも一案です。ただ、外部不経済の大きさを把握したり適切な調査をしたりする政府の能力には疑問符が付きますし、場合によっては政府の失敗の方が大きい可能性があります。その場合は不完全でも市場に任せる方がよいと言えます。二つの不完全な選択肢のうち、その方がましだからです。無論、これは市場か政府かの二者択一ではなく、○○の部分には政府が介入するが、それ以外は市場に任せるなどさまざまなバリエーションがありえます。

*17:これは今回は詳しく説明しませんが、情報の非対称性の例です。

*18:サンタクララ大学のデイヴィッド・フリードマン名誉教授は20世紀を代表する偉大な経済学者ミルトン・フリードマンの息子で自身も著名なリバタリアンの経済学者ですが、主流派経済学(新古典派経済学)に対する一部のオーストリア学派の執拗な攻撃についてやや皮肉な調子で次のように述べたことがあります。「私はリバタリアニズムにおける“オーストリア学派”ビジネスは、概して製品差別化の問題だと考えている。新古典派の伝統の異なる分派からその思想を得た人たちの間では、強調する点が異なっている。しかし、その違いが本質の違いになるのは、彼らが自分自身の立場(オーストリア学派)の極端な見方をするか、もう一方の立場(主流派)について極端な見方をするかのどちらか、あるいは両方をとった場合だけである。オーストリア学派の極端な見方は擁護可能なものだとは思わないし、主流派の極端な見方は(現実の主流派の描写として)正しいとは思わない」(デイヴィッド・フリードマンのブログ,2013年11月10日)。これは辛らつかもしれませんが、妥当な指摘ではないでしょうか。今でこそオーストリア学派の経済学者の多くが新古典派、主流派を目の敵にしていますが、元々、オーストリア学派新古典派の一部であり、そもそも主流派の一部と認識されていました。新古典派との強烈なブランドの差別化がなされたのはオーストリア学派の経済学者のリーダー的存在であるミーゼスやハイエクが1940-1950年代に米国に移ってからのことで、そうした路線を過激に進めたのはミーゼスの弟子のロスバードのようなオーストリア学派の経済学者の一部だけです。

*19:オーストリア学派と主流派の間には金融政策をめぐる見解の相違もありますが、日本の現状ではこれは現在優先順位が高い課題だとは思えません。なお、CPAC演説でミレイ氏はデフレの価値を称賛していますが、アルゼンチンの最近の金融政策を見ると、ドル化という公約はどこかへ行ってしまい、強い言葉とは裏腹に大インフレを助長しかねない金融緩和への逆戻りが起きつつあるように見えます。アルゼンチンの現状からは当面引き締め的な金融政策が妥当なはずです。今の動きが一時的であればよいのですが。