先日はオーストリア学派のレトリックを中途半端に使った増税を支持する議論を批判したので、あるいは誤解があるかもしれませんが、私は別に真面目にオーストリア学派を研究している方に喧嘩を売っているわけではありません*1。私が言いたかったのは単にリバタリアンの本丸は減税や規制改革であって、金融政策の意見の相違を理由に減税派を攻撃したり専ら反金融緩和ばかり唱えたり、まして増税を主張したりするようになっては本末転倒でしょうというだけのことです。
多くの場合、オーストリア学派の主張は有益ですし、それは私自身これまできちんと評価し紹介してきたつもりです。例えば、最近の話で言えば、オーストリア学派の経済学者出身のアルゼンチンのミレイ大統領が進めている規制改革や歳出削減は称賛に値すると思っています*2。アルゼンチンが経済自由化を進めることは不可欠でしょう。アルゼンチンの通貨であるペソを廃止して米国ドルを代わりに使うドル化政策、中央銀行廃止についても、アルゼンチン中銀の散々な実績を考えるとありうるオプションです*3。
では、金融政策に関してアルゼンチンと同じことを日本に勧めないのはなぜかと言えば、それは単に状況が違うからです。2023年12月の消費者物価指数でみた日本のインフレ率は前年同月比2.6%です。アルゼンチンは211.4%です。アルゼンチンは、世界で最も高いインフレを起こしてきた高インフレ国です。一方、日本は世界最低のインフレ率(デフレ)の常連の国ですし、今でも国際的に見てインフレ率の低い国です。200%以上のインフレの国と2%のインフレの国では優先課題やなすべき政策が違っていてもおかしくないのではないでしょうか。
インフレーションはいつでもどこでも貨幣的現象であるというフリードマンの言葉の通り、アルゼンチンの極端なインフレの主な原因は爆発的な貨幣量の増加をもたらした金融政策です。アルゼンチンの広義貨幣量M2の前年同月比増加率は2023年12月には 142.3%でしたし、2024年1月には 182.4%です。これはどんな基準から見ても大きすぎますし、アルゼンチンでは貨幣の急増を止めるのが急務であるのは明白です。アルゼンチン中銀はこれまでも財政ファイナンスのために過大な貨幣の増加を容認してきましたし、猛烈なインフレを何度も起こしてきました。アルゼンチンのインフレを止めるには厳しい金融引き締めが必要ですし、ドル化は究極の安定化政策です。アルゼンチン中銀の一向に改善されない散々な実績と信頼のなさを考えると、ドル化にはリスクはあるものの、それはそれでありうる政策であると思います。
一方、日本はM2の前年同月比増加率は2023年12月には2.3%、2024年1月には2.4%でした。日本の貨幣の増加率はバブル崩壊以降は大体この程度ですが、これは主要国でも最低水準です。ちなみにバブル崩壊以前は日本の貨幣量は約8%で増加していました。貨幣量以外の基準をとることもできますが、日本の金融緩和の効果は穏やかなもので、景気の極端な加熱も極端な物価上昇も起こしていません。破滅論者の期待するような顕著な副作用も別に生じていません*4。
日本の金融政策には様々な課題があるでしょうし、ご批判もあるでしょうけれども、日本の喫緊の課題が高すぎるインフレや金融緩和の行き過ぎであるとは思えません。イデオロギーではなくてデータを素直に見る限り、インフレの悪に関する一般論や昔の格言を、インフレ率の違いを無視して日本にもアルゼンチンにも同じように当てはめるのは無理があるでしょう。日銀はアルゼンチン中銀とは似ていませんし、日本のインフレをアルゼンチン同様の大問題だと主張するには少なくとも100倍ほど話を誇張しなければならないでしょう*5。
まあ、もちろん、それでも、日本のインフレ率を2%から0%(あるいはマイナス?)にすることが是非とも必要でそう考えない奴は絶対に許さないし自由主義者の資格を認めない!というのであれば、それは意見の相違でもうどうしようもないでしょう*6。別に私は特に言葉にこだわる趣味はありません*7。とはいえ、インフレとか金融緩和を終わらせることが今の日本にとって自由な社会の実現のためには不可欠で最優先の課題かと言えば、さすがにそれは違うのではないでしょうか*8。金融政策がどうであれ規制改革も無駄な歳出の削減も適宜進めればよいだけでしょう。金融緩和を潰しデフレに戻すのが規制改革とか歳出削減の必要条件だとしたら、そんな条件を満たしている国はありませんが、実際は規制改革が進んでいる国はいくらでもあるのですから、そこにこだわる意味はないのではないでしょうか。別に金融政策で何でもできるわけではありません。
*1:一部の方から極端に攻撃的な批判をいただいたので驚いたのですが、私は別に特に特定の方を念頭に置いた個人攻撃やそう受け取られる表現をしたつもりはなかったので誤解を招いたなら申し訳なく思います。一貫したオーストリア学派の経済学の紹介をされている方は意見は違っても尊敬に値すると思っています(例えば、こちら)。
*2:ただし、ミレイ大統領の経済以外の政策については、中絶禁止など議論の余地のある政策があります。特に女性の選択の自由を制限する中絶禁止には強く反対です。
*3:何が何でも特定の政策を常にどの国にも万能薬のように処方するとかそういう趣味は私にはありません。状況に合わせて処方箋は異なるでしょうし、それは当たり前です。中央銀行が無能で信頼がなく、独自の金融政策を持つメリットよりもその弊害の方が上回ると予想される途上国の場合、ドル化は一つの選択肢になりうるでしょう。ただし、ドル化を推進するにあたっては、歳出改革を徹底する必要があります。そうでないと財政破綻のリスクが高まります。また、ドル化に幻想を持つべきではありません。ドル化していても、パナマやエクアドル、エルサルバドルといった国はさして経済自由度が高い国ではありませんし、いずれも貧しい国です。例えば、ヘリテージ財団の公表するEconomic Freedom Indexの2023年のデータを見ると、経済自由度のスコアは日本が69.3であるのに対し、パナマが63.8、エルサルバドルが56、エクアドルが55です。パナマは日本と同じくmostly freeに分類されますが、エルサルバドルとエクアドルはmostly unfreeに分類されています。
*4:例えば、金融緩和のせいで政府が借金漬けになったという人もいますが、日本の債務残高が大きいのは今に始まったことではなく2012年に既に純債務残高の対GDP比は144%でした。アベノミクス以降、コロナ禍を除けば政府債務の伸びはむしろ鈍化しています。例えば1990-2012年にかけて毎年平均して純債務残高の対GDP比は5.7%ポイント上昇していましたが、2012-2023年では1.3%ポイントに下がっています。2012~2023年にかけて政府の純債務残高は対GDP比で14.6%ポイント上昇しましたが、IMFにデータのある87か国の平均は12.7%ポイント、中央値は15.5%ポイントですから特に日本が大きいわけではありません。
*5:なお、個別の資源価格の高騰は、中央銀行は原油も食料も生産できませんので、金融政策のせいにしても解決できません。対策としてはガソリン税や関税引き下げといったミクロ的な政策で対応すべきです。最近起こった悪いことは何でも中央銀行のせいというのは無理筋ではないでしょうか。私はそういう中央銀行万能論には反対です。
*6:殆どの国は2%もインフレを目標にしていますし、2012年以前の日本はデフレだったわけですが、それが理想だというなら好きにすればいいでしょう。しかし、インフレ目標を支持したり金融緩和を支持したりする経済学者が「アカ」で社会主義者だというのはさすがに言いがかりです。世界の先進国の大半はインフレ目標を持ちますし、大半の経済学者はそれを支持しています。大多数の経済学者はやはり社会主義者なのでしょうか。そういうわけではないでしょう。せいぜい、どういう制度がいいかの些細な意見の相違ではないですか。
*7:自由主義とかリバタリアンという言葉が資格認定制だとは知りませんでしたが、私のミスですからどうぞ好きなようにしてください。
*8:なお、オーストリア学派を支持するリバタリアンの多くは金本位制を主張していますが、それが自由な社会とどのくらい関係あるのか疑問に思います。金を通貨にする制度もそもそも政府が作った制度ですし、19世紀の金本位制の時代は別に理想的な自由の時代だったとは言えません(例えば植民地主義や奴隷制も徴兵制もあった時代です)。金本位制の廃止以降、管理通貨制の下で世界経済は大きく拡大しています。いろいろな意見はあるでしょうが、古い通貨制度に執着するよりも、規制を減らし経済的自由を拡大することに主眼を置くべきではないでしょうか。本題と関係が乏しい技術論にはまりすぎるのはどうかという気がします。