柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

書斎の過激派オーストリアン

小さな政府を支持するリバタリアンを自称する方の中には、何であれ金融緩和に強硬に反対される方がいます。「日銀の不自然な市場への介入のせいで金利が低水準に抑えられると日本経済は大変なことになる」のだそうです。彼らに言わせると、アベノミクスとは社会主義にほかならず、金融緩和は害しかなかったということになるようです。このタイプの金融緩和否定論者はオーストリア学派風のレトリックを使って「金融政策に関しても政府が介入せず市場に任せるべき」と主張しています*1

しかし、こうした金融緩和反対論は一見するとリバタリアン風ですが、実のところ全く不徹底ですし、実際には金融引き締め論が自由主義的といえる根拠などありません*2。「市場に介入するな」と言っても、そもそも日本銀行券を発行しているのは日本銀行です。現代では、貨幣を発行しているのは通常はその国の中央銀行です*3。金融政策に関して政府介入がない「自然な状態」などというものは最初から存在しないのです。デフレ的金融政策であれ、インフレ的金融政策であれ、ちっとも「自然」でないことに変わりはありません。ハイエク流の貨幣発行自由化論を唱えるならばともかく、金融緩和にせよ引き締めにせよ、政府の経済政策の運営の話に過ぎません*4。デフレを放置するのは「市場に任せる経済政策」をやっているのではなく、単に無為無策というべきです*5

金融政策の評価は、それがどれだけ「自然」かではなく、物価の安定という中央銀行の使命を果たせているかどうかで評価すべきです。物価が上昇し過ぎるのも下落し過ぎるのも有害であることは、深刻なデフレ不況が引き起こした1930年代の世界大恐慌や、南米諸国のハイパーインフレなどの過去の経験から明らかですから、中央銀行は両方を避けるように、貨幣の供給に責任を持つべきだというのがスタンダードな考え方です。日本は最近までデフレが続いていましたし、最近のインフレは国際的な資源価格高騰によるコストプッシュインフレで、一時的なものです。今も国際的に見て日本のインフレ率は低い方に属しますし、デフレに逆戻りするリスクも高い状況です。これまで金融緩和を続けてきたのは妥当だったといえるでしょう。

インフレ目標は不必要で、デフレであろうが何だろうが構わないし、物価の変動を「市場に任せる」べきだというのは、日銀官僚が何の基準もなしに思い付きの自由裁量で好きなように政策を決めてよいと言っているに等しい官僚万能論です。日銀の金融政策を縛るインフレ目標をなくすべきだというのは、官僚の成果を判定する基準など不都合だからいらないという主張です。こういう考え方はとりわけ自由主義的なのでしょうか?自称リバタリアンバブル崩壊以降の日本経済をデフレにしてしまった日銀官僚を免責する主張を強く支持しているのは全く奇妙なことです。

まあ、それでも金融緩和に批判的になるのは構わないとしても、そこはリバタリアンの攻撃すべき本丸でしょうか。日本の自称リバタリアンの方の中にはどういうわけか、減税はバラマキであると称し増税を支持したり、地方の金融機関の苦境を救済するために金融引き締めをせよと主張したり、どうにも理解できない主張をされる方が少なくありません。金融緩和を社会主義だと言って否定しながら、どう見てもよほど社会主義に近い政策をリバタリアニズムだといって支持するのはいかがなものでしょうか。リバタリアンを称しながら、専ら金融緩和否定論ばかりを唱えたり、消費税増税を支持したりするというのは本末転倒ではないでしょうか。オーストリア学派の理論には、社会主義経済計算不可能論や企業家論、市場競争の本質に関する議論など素晴らしい議論がたくさんあります。金融緩和否定論にばかりこだわって、もっぱら白川総裁時代の日銀や増税路線を擁護するリバタリアンなんて矛盾した存在になるのはおすすめできません*6

アルゼンチンやトルコのような国なら、行き過ぎた金融緩和を議論するのは意味があります。インフレ率が2桁や3桁に達している国にとって、それは喫緊の問題です。ですが、長年デフレが続いてきた、今もインフレ率が極めて低い日本で同じ問題を最重要の問題のように議論するのは、洪水の中で火事だと叫んでいるようなものです*7

*1:かつてミーゼスやハイエク、ロスバードなどのオーストリア学派の経済学者は金融緩和はバブルや極端なインフレを起こし不況を深刻にするだけで有害無益だと主張しましたが、日本の場合、長期停滞の間バブルも極端なインフレも起きていません。彼らの主張は当てはまっていないといえるでしょう。念のため言えば、私自身、オーストリア学派の経済学者からは大きな影響を受けていますし、特にミーゼスやハイエクは大変尊敬していますが、彼らの業績は金融緩和反対論ではなく、社会主義に対する自由市場経済の優位性を示した点や自由市場は自由な社会の不可欠な要素であることを示した点にあると考えます。オーストリア学派の評価については、拙著『本当に役立つ経済学全史』第9講、第11講をご覧いただければ幸いです。

*2:こういう過激な意見を主張している方がしばしば金融機関等の天下り先に就職した元日銀幹部だったり、政府から手厚く保護された地銀の幹部だったり、終身雇用の公務員だったりするのを見ると全く興ざめしてしまいます。他人には100点満点を求め、それ以外は認めないような勇ましいことを言いながら、自分自身は安全地帯から発言していて矛盾を感じないのでしょうか。この手の書斎のリバタリアン無政府主義や完全な自由放任を説く割に、自分の理想を実現する手段を何も考えておられないのはどうしたわけでしょうか。もちろん、理論的に急進的なことを唱えるのも結構ですが、そういう理想を唱えるなら、どうすればそこにたどり着けるかを示し、当面はどうするかを言わないのは無責任でしょう。書斎の過激派で、実際は従順な政府の僕であるというのはいかがなものでしょうか。まあ、いろいろ事情はあるのでしょうが、実際に少しでも減税や規制改革を前に進めようとしている方を罵倒するようなことはやめてほしいものです。それは「私の考えた最強の構造改革」とは違うかもしれませんが、ゼロよりは一歩でも進んだ方がましだと思いませんか。

*3:そうでない場合も、せいぜい他国の中央銀行の発行した通貨を使うか、他国の中央銀行の発行する通貨を基準にした貨幣の代替物を使っています。

*4:将来的にはハイエク流の貨幣発行自由化論の実現を唱えながら、当面の日本のとるべき政策としては金融緩和を支持する立場は論理的に別に何も矛盾しませんし、十分合理的なものであり得ます。

*5:金融政策だと話が少しわかりにくいかもしれませんが、警察や自衛隊で考えてみるとわかりやすいでしょう。警察や自衛隊は日本政府が提供しています。警察が犯罪の取り締まりをしなかったり、自衛隊が侵略国と戦わなかったりする状態は「政府が介入せず自然な状態に任せている」とは言わないでしょう。それはただ単に政府が公共財をまともに提供していないというだけです。

*6:念のためですが、本物のオーストリアンとして一貫している方を非難するつもりはありません。私とは考えは違いますが、そういう主張はありうるでしょう。考えは金融緩和に関しては違っても他は大体同じですし、目指している方向性は同じなのですから、協力できるところは多いと思っていますし、喜んで協力したいと思います。ここで批判しているのは、オーストリアンのレトリックを借りているだけの増税派、偽オーストリアンというべき人達です。

*7:日本の現状を見ずに、他国の例や現在とはかけ離れた歴史的事例を根拠に常に金融引き締めを主張したり、本で読んだ知識をもとに常に金融緩和の弊害を説いたりするのは現実とは無関係の抽象的な議論ですし、そんな議論が支持されないのは当然でしょう。