柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

市場の失敗に関するフリードマンの見解

先日の投稿で市場の失敗について私の述べた見解は、ミルトン・フリードマンの主張とほぼ同じものです。フリードマン社会主義者国家主義者にとって、自由主義のシンボル的存在であるようで「市場万能論者だった」などと攻撃されがちですが、実際にはそれは藁人形への批判というべきです。不注意な介入主義者とは反対に、彼は市場の失敗にも政府の失敗にも同じように注意を払っていたというだけのことです。

ミルトン・フリードマンは市場の失敗に対して全く盲目どころではありませんでした。彼は1980年代の日本のバブルや1990年代末の米国のITバブルをいち早く警告した人でしたし*1外部不経済の問題には『資本主義と自由』をはじめとする一般書でもきちんと触れています。実証主義者であるフリードマンは、実際に市場がうまくいかないときはその事実をありのままに認めましたが、市場が失敗しているからと言って、政治家の善意と裁量にゆだねてよいと考えるほどナイーブではありませんでした。あるインタビューでは、次のように述べています。

インタビュアー:「ある経済学者たちは、おそらく大半の経済学者がそうだが、次のように論じている。マネタリストケインジアンの根本的な違いは、マネーサプライの影響に関するそれぞれの見方の違いではなくて、市場メカニズムが均衡をもたらす力に関する異なった見方である。マネタリストが市場の力が均衡をもたらす傾向を信頼しているのに対し、ケインジアンは深刻な市場の失敗があり、それはマクロ経済レベルでの何らかの積極的な介入を必要とするのだと論じるのだ、と。このような見方に同意するか?」

フリードマン:「そのような見方には同意しない。あらゆるタイプのマネタリストがいる。市場の失敗を強調する人もいれば、そうでない人もいる。すべての経済学者は、マネタリストであれケインジアンであれ何であれ、市場の失敗のようなものがあると認めている。

私が思うに、経済学者を本当に区別するのは彼らが市場の失敗を認めるかどうかではなく、彼らが政府の失敗をどれほど重く見るか、とりわけ、政府が市場の失敗といわれているものを是正しようとするときに、政府の失敗をどう見るかである。この違いは、経済学者が様々な問題に取り組む際にどんな時間的視野で考えるかと関係する*2

私自身についていえば、私は、市場の力が均衡をもたらす傾向については、大半のケインジアンよりも信頼しているわけではない。しかし、問題を悪化させずに市場の失敗を是正する政府の能力に対しては、大半の経済学者(ケインジアンであれ、マネタリストであれ)よりもずっと信頼していないのだ。」*3

極めて深い洞察であると思います。実際、私たちが一番不満を感じることが多い市場はどういう市場でしょうか。たぶん、医療、介護、教育、農業といった分野ではないでしょうか。あるいはなかなかつかまらないタクシーかもしれません。こういった分野では市場の失敗を是正するために政府のさらなる介入が必要なのでしょうか?いや、むしろこれらの最も不満の多い分野こそまさに政府が最も深く関与している分野でしょう。

例えば、医師の数が少ないのは医学部の定員を制限し新規参入を阻止しているからです。バターが足りなくなったり牛乳が余ったりするのは農水省が管理する計画経済風の生産体制や国家貿易のおかげです。タクシーがなかなかつかまらないのは、そもそも政府が台数を制限して新規参入を阻止し、ライドシェアのような新しいサービスも認めてこなかったのですから当然です*4。これらの問題は市場の失敗ではなく特定産業と結びついた政府による既得権保護がもたらした「政府の失敗」です。政府の規制は、元々の意図は立派なものだったのかもしれませんが、意図ではなく結果を見ればその失敗は明白です。特定の産業への支援や介入は、規制当局や政治家と業界の癒着を招き、消費者を犠牲にする既得権保護になりがちです*5

フリードマン教条主義的な自由放任主義者であるかのように言うのは全くの誤りです。フリードマンは市場だけではうまくいかない場合には、負の所得税や教育バウチャー、医療貯蓄口座といった貧困層を救うアイデアを積極的に提案することを厭いませんでした。彼が反対したのは、弱者保護に名を借りた政府による特定の産業への利権誘導や既得権保護です。市場の失敗を口実に闇雲に政府が介入した結果は時代遅れの産業をいつまでも保護し技術革新の導入を妨げ、独占を打破する新規参入を阻止する結果に終わるのが常です。だからこそ、フリードマンは、市場の失敗があり介入が必要になる場合でも*6、市場にとって代わる介入ではなく市場を活用した政策を支持し、政府の役割を厳しく限定する必要性を訴えたのです。「市場の失敗があるのでフリードマンなんて古い」などという流行の最先端にいるつもりの介入主義者よりも、フリードマンは遥かに先を見通していたといえるでしょう。「市場原理主義」などとレッテルを張ってフリードマンを否定しようとするのは全く不毛な試みです。

*1:この辺りは拙著でも紹介したところですので、興味のある方はご覧いただければと思います。

*2:短期を重視すると介入主義的になりがちで長期を重視すると市場に任せるべきという判断になりがちという指摘(Friedman,M and Friedman, R. D.(1999) Two Lucky People: Memoirs, Chicago: University of Chicago Press)。

*3:Snowdon, B., & Vane, H. R. (1997). "Modern macroeconomics and its evolution from a monetarist perspective: An interview with Professor Milton Friedman," Journal of Economic studies, 24(4), 191-221.

*4:なお、4月から日本版ライドシェアが始まっていますが、運行主体をタクシー会社に限定し、台数を制限した上に価格競争も認めない「日本版ライドシェア」は諸外国のライドシェアとは大きく異なります。

*5:フリードマンはいささか皮肉な言い回しでこうした典型的な政府の失敗を風刺しています。「政治においては、市場とは反対の方向に動く見えざる手がある。政治においては、公共の利益だけを追求している人々は、見えざる手に導かれて、彼らがまったく意図しなかった特殊利益を促進することになる。」(Friedman, M(1983) Bright Promises, Dismal Performance: An Economist's Protest,  New York:  Harcourt Brace Jovanovich).

*6:彼は市場が失敗している場合でも政府が介入しない方がまだしもましである場合が多いと考えていました。実際、それはしばしば正しいでしょう。