柿埜真吾のブログ

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植田総裁の記者会見雑感

前回の投稿では、28日の日銀総裁定例記者会見での記者の質問について取り上げましたが、今回は植田総裁の説明の中身の方を取り上げたいと思います。

28日の定例記者会見で、植田総裁は、今回のYCC柔軟化をあくまで運用上の見直しであると主張し、「上下双方向のリスクに機動的に対応していくことで、この枠組みによる金融緩和の持続性を高め」、2%目標達成に資する措置であると述べ、今回の措置が金融引き締めにつながる動きであるという予測を打ち消すことに努めておられました。

しかし、総裁の説明は必ずしも説得的ではなかったと思います。長期金利が1%を超えそうなときは1%の利回りの指値オペ金利を安定化させるということでしたが、±0.5%の「目途」がどの程度の意味を持つのか、あるいは長期金利が0.5%~1%の間にある時はどのような措置をとるのかといった点は曖昧なままでした*1。結局、今回の措置でどの程度まで金利が上昇するかは実際の運用を見なければ何とも言えませんが(実際、日銀がどうするのか明確な方針がないのですから予測しようがないでしょう)、金融政策の方向性を不透明にし、2%インフレ目標の安定的・持続的な達成に向けた動きに水を差すものとしか言いようがありません。せっかく軌道に乗りつつあるのですから、もう少し待てなかったのでしょうか。

会見で植田総裁は1%の上限は「念のため」の上限で、長期金利が直ちに1%になることは想定していないという認識を示しました。だから、これは金融引き締めやいわゆる金融政策の”正常化”*2に向けた動きではなく、ただの運用見直しであり、金融緩和は続くということです。リフレ派に近い審議委員の方々が賛成票を入れたのもこのような理解に基づいているのだろうと思います。確かに、今回の変更で今すぐ引き締めが始まるというわけではないでしょう。植田総裁の会見はこの点では丁寧で不安の払拭に多少の効果があったかと思います。

しかし、安心できるものなのかといえば、やはりそれには程遠いと思います。今回発表された金融政策の調節方針は執行部とオペ担当者の裁量の余地が大きく、どうとでもなりうるものです。0.5~1%の間の金利については政策委員会は執行部に白紙委任状を与えたに等しい状態です。そもそも、2013年4月の量的・質的金融緩和の開始以来、10年物国債金利が1%を上回ったことはありません。1%を上限にするという措置は、要するに執行部がその気になれば、いつでもYCC以前、量的質的金融緩和以前の状態に戻すことができるということです。このような裁量性の大きい政策自体、好ましいものとは言えないと思います。

植田総裁によれば、0.5%の上限を柔軟化したのは将来の物価の上振れリスクや不確実性に備えたものだそうです。しかし、日銀の物価見通しでは来年以降の物価は高くても2%代前半で、今年からは大きく低下する見通しです。4月の展望レポートに比べ、今回発表された7月の展望レポートでは、消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)の2024年度のインフレ率の中心的見通しは2%から1.9%にむしろ引き下げられています。実際、現在のインフレの主因である国際的な資源高は現在は落ち着いており、既に輸入物価はピークの16%ほど低下しています。上振れリスクは低いとみるべきではないでしょうか。仮に上振れのリスクがあるとしても、このような対応が必要だったとは思えません。デフレ均衡からの脱出にはある程度は物価がオーバーシュートすることは必要です。少なくとも、新執行部発足から間もない時期で、4月に緩和継続を表明してからわずか3か月というこのタイミングでの政策修正には慎重であるべきだったのではないでしょうか。明確さを欠いた政策は経済・物価の不確実性をむしろ高めるものといえます。

植田総裁の説明は、物価が予想より上振れした場合、長期金利を厳格に固定すると実質金利が低下し、緩和効果が強くなる上*3金利を抑えるための国債買い入れの必要が強まるので、副作用が強くなるため、修正が必要だったという説明でしたが、具体的な副作用がなんなのかは明確ではありませんでした。今回の会見で、植田総裁は今回の措置の目的の一つには為替相場ボラティリティの抑制する意図があることを示唆しましたが、これは大変な失言としか言いようがないと思います。為替の安定に金融政策を割り当てる政策は、過去の経験からすると、金融危機など悲惨な失敗につながったケースが殆どです。為替のボラティリティの安定を政策目標に含めるのは問題が多い措置です。いずれにせよ、植田総裁が言及したような「副作用」はいずれも、僅か3か月で4月の方針を大きく転換する理由にはなり得ないと思います。

前にも触れた通り、仮にこうしたYCCの修正を実施するのであれば、YCCの修正が金融緩和自体の終了と受け取られないように、コミットメントを強化するような措置、例えば、物価水準目標あるいは一時的な高めのインフレ目標の採用、あるいはマネタリーベースのオーバーシュート型コミットメントの強化といった新たな措置を講じる必要があったはずですが、そうした措置が取られることもありませんでした。

今回の措置が実質的な利上げ、金融引き締め方向への転換であるのは明らかです。金利上昇それ自体が与える影響は短期的にはそれほど大きくはないかもしれませんが、どうなるかは運用次第ですし、日銀のインフレ目標達成へのコミットメントの毀損による悪影響は深刻なものになりえます。今後は日銀が「粘り強く」などといってもそれはせいぜい3か月ぐらいという軽い意味にしか受け取られないでしょう。2000年のゼロ金利解除や2006年の量的緩和解除の失敗から当然、植田日銀は学んでいるものと期待したかったのですが、どうもこれは希望的観測だったようです*4

*1:長期金利の水準や変化のスピード等に応じて機動的に対応する」というのは何も言っていないも同然です。

*2:金融政策の”正常化”という言葉は、正直好きではありません。経済が30年もデフレ・低インフレが続いた日本経済は異常な状態なのですから、それなりの思い切った政策が必要なのは当然です。経済の状態が異常な時に、平時の金融政策をやるのは、正常化ではなくそれ自体が異常で不適切です。もちろん、経済が正常化すれば政策もそれに合わせて変わる必要はありますが、短期金利操作による金融政策に戻ることそれ自体が望ましい目的であるわけではありません。病人が薬を飲むのは病気だからです。健康になれば薬の服用をやめればいいでしょう。しかし、病気の状態にかかわらず、薬を飲むのをやめることそれ自体が目的化すると、全くおかしなことになります。

*3:既に指摘した通りですが、日銀の物価見通しからしても今後、インフレ率が極端に高くなり、実質金利が大きく低下する可能性は極めて低いように思われます。また、そもそも緩和効果が強まって悪い理由は今は存在しないと思います。

*4:なお、リーク報道直後は大混乱したものの、為替と株がその後(7月31日現在)は落ち着いていることをもって、今回の政策変更は成功と判断している方がおられます。ですが、もしそんな基準で判断するなら2000年のゼロ金利解除や2006年の量的緩和解除後にしても”成功”であったことになります。例えば、2000年8月11日のゼロ金利解除の際、日経平均終値は前日の1万5975円65銭から値上がりし1万6117円50銭となり、土日をはさんで14日も株価は1万6153円91銭に上昇しています。だからといって、最悪のタイミングで実施されたゼロ金利解除が悲惨な失敗だったことを否定する人は殆どいないでしょう。

株式市場がある程度効率的であれば、政策の影響はそれが予想されるようになった時点で即座に株価に反映されるはずです。政策変更の影響を見るには政策に関する新たなニュースがあった直後の反応を見るのが妥当でしょう。その反応がネガティブなものだったことは明白です。

その後の株価の推移には、他の様々な出来事の影響が入るので、正確な影響を知ることは困難です。YCC柔軟化の影響は他の影響にかき消されるほどで当面は重大な影響は出ていないというぐらいなら言えるかもしれませんが、政策修正は大成功だと主張するにはいくら何でも早すぎるでしょう。長期金利は0.6%台に上昇していますし、0.5%の目途をすでに上回っています。この影響はこれから出てくると考えるのが当然でしょう。

そもそも、7月に入ってから株価は下落基調でした。今回のリーク報道以前にも政策変更を予想する声は一部に根強くありました。下手をすると、リーク報道と同じような情報漏洩があった可能性も大いにありそうです。YCC修正は完全に予想されてはいなくても、7月に入ってから政策変更の可能性はすでに株価にかなり織り込まれていたと考えることもできます。あまり脅かすつもりはありませんが、楽観していい理由は殆どないと思います。