柿埜真吾のブログ

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書評掲載(5/ 21)『サミュエルソンかフリードマンか』

この度、『週刊金融財政事情』に、ワプショット『サミュエルソンかフリードマンか 経済の自由をめぐる相克』(藤井清美訳,若田部昌澄解説,早川書房)の書評が掲載されましたのでお知らせします。是非ご覧いただければ幸いです!

『サミュエルソンかフリードマンか』 | きんざいOnline (kinzai-online.jp)

本書の著者ワプショットは『ケインズハイエクか』で大恐慌期の経済論争を描いた作家で、本書はいわばその続編です。ケインジアンに挑戦しマネタリズムと小さな政府を主張したフリードマンと、当時のケインジアンのリーダー的存在だったサミュエルソンの対決は、経済学に関心のある読者ならだれもが関心を持つドラマです。ワプショットはサミュエルソンフリードマンの対決をケインズハイエクの対決の第二ラウンドとみなし、著者は市場原理主義の暴走こそ近年の経済危機の元凶だとし、サミュエルソンに軍配を上げています。本書は、日経新聞の2023年の今年の経済書の一冊にも選ばれている話題作です。本書には、若田部昌澄先生のバランスの取れた優れた解説があり、原田泰先生の優れた書評がありますので、ぜひこちらもご一読いただければ幸いです*1

さて、この本は確かに話題作でご一読をお勧めしたい本ではあるのですが、私の評価はワプショットに対して極めて批判的です。本書は確かに面白い本ですが、多くの点でミスリーディングでピントがずれているからです。本書の終わりにある若田部先生の解説は本書の重大な誤りや偏りの多くを正していますが*2、ここではいくつか追加的な点を補足しておきたいと思います(全体の書評は『週刊金融財政事情』の方に載せましたのでそちらをご覧いただければ幸いです)。

本書の最大の問題点は、悪の市場原理主義者と戦う正義の介入主義者という勧善懲悪のストーリーに合うような話以外が強引に無視されているという点です。サミュエルソンフリードマンの論争は、本書が主張するような「介入すべきか介入せざるべきか」といった粗雑な議論ではなく、もっと学問的な論争です。フリードマン市場メカニズムの活用を説いてはいますが、本書がそう思わせたがっているような市場原理主義のイデオローグなどではありません。「制約のない資本主義」とか「貨幣がすべて」*3とかいった主張をしたことはそもそもありません。市場がうまく機能しない場合やそれだけでは不十分な場合は、例えば教育バウチャーや負の所得税、医療貯蓄口座といった制度を提案する柔軟な思想家でした。金融政策のルール化やデフレ阻止のための量的緩和への支持もその一つです。彼の主張は実証研究に基づいており、ドグマティックに自由放任を主張し大恐慌の下でも金融引き締めを説いていたオーストリア学派とは全く違います。ワプショットのこの本は、悪く言えば前著の二番煎じであり、いわばフリードマンに無理やりハイエクの役をさせようとしているわけですが、論理展開が極めて強引で無理があるとしか言いようがありません。ワプショットは、オーストリア学派シカゴ学派の違いを理解しておらず、もっと悪いことに、経済学の知識が全般に不足しています。

ワプショットの説明は『資本主義と自由』等のフリードマン自由主義実証主義の特徴づけについてもミスリーディングなものが多いのですが、特に貨幣理論に関する誤りは極めて深刻なもので本書の価値を大きく損なっています。例えば、ワプショットは、フリードマンが「ケインズ主義を打ち負かすためのビッグアイデア、インフレは貨幣の流通速度によってのみ引き起こされるという考え」(邦訳128頁,原著94頁)を持っていたと主張し、しかもそれがケインズの『貨幣改革論』の模倣だと示唆しています。しかし、これはナンセンスな主張ですし、フリードマンの原著をほんの少しでもきちんと理解して読んでいれば、絶対に起こりえない誤りです。フリードマンは「インフレは貨幣の流通速度によってのみ引き起こされる」などという奇妙なことを主張したことは一切ありません。それどころか、フリードマンの主張は全く逆です。フリードマンマネタリズムは、持続的なインフレを引き起こすのは貨幣供給量の変化であり、貨幣の流通速度の変化がインフレを引き起こすことは通常ないと主張する学説です*4フリードマンは、貨幣流通速度を予想インフレ率などの変数の安定した関数だと指摘しましたが、これは貨幣の流通速度が融通無碍に変化すると考えたケインジアンとは決定的に異なる考えです*5。ワプショットはケインジアンマネタリストの主たる争点をまるで理解していません*6

この個所に限らず、本書の中でワプショットは貨幣量Mと貨幣の流通速度Vを混同し続けており、明らかに両者を同じものだと誤解しています(念のため言っておきますが、これは翻訳の誤りではなく、原著の誤りです)。貨幣の流通速度と貨幣量の違いは極めて初歩的な内容で、通常、大学の経済学部なら学部1,2年生で習う内容です。これに限らず彼の説明には初歩的な経済理論を理解していないのではないかと疑われる個所が少なくありません。彼は物知りのジャーナリストであっても、経済学の素養に欠けているとしか言いようがありません。貨幣理論を論じていて、こんな間違いをしているのは、足し算に順序があると書いてある数学の本、加速度と速度を同じものだと思っている物理の本とか、中国地方と中華人民共和国が同じものだと思っている地政学の本とあまり変わりません。ワプショットの本は経済学の論争を扱った真面目な研究書として読むべきではなく、経済学者を題材にした面白い読み物とみなすべきです。内容も理解していないにもかかわらず、フリードマンを居丈高に攻撃する姿勢には強い違和感を覚えます。

ワプショットは、マネタリズムを「貨幣がすべて」とか「金融政策は万能」といったナンセンスな意見と同一視していますが、そんな主張はフリードマンだけでなくまともなマネタリストが誰一人主張したことがないものです。マネタリストは短期では貨幣の変動が景気変動に大きな影響を与えると考えますが、長期的には貨幣的変化は主として物価に反映され、貨幣の増加だけで経済を成長させたりすることはできないと考えます。ワプショットはこの短期と長期の区別の重要性が理解できていないために、しばしばかなりナンセンスなことを書いています。例えば、「金融政策は自然失業率以下に失業率を釘付けにし続けることは出来ない」というフリードマンの米国経済学会会長講演での主張*7について、ワプショットは「金融政策だけが全ての目的を達成できると主張する用意はまだできていなかったフリードマンは珍しく慎重な物言いをした」(146頁)と主張しています。ですが、フリードマンが「金融政策だけが全ての目的を達成できると主張」したことなど一度としてありません。問題の講演でフリードマンが言っているのはマネタリズムの基本的な主張で、短期では金融政策で景気を刺激して失業率を下げることができるが、長期では失業率のような実物変数を金融政策で左右することはできないという話です。もちろん、これは彼の一貫した主張で、実証研究でも支持されているきちんとした学説です。こんな調子でフリードマンの論文の隠れた動機や意図を悪意に満ちた推測で(何の証拠も上げずに)長々書かれても、「まず論文を理解してからにしてください」という他ありません。長期と短期の金融政策の効果の違い、予想の役割の重要性といったマネタリズムの基本中の基本を全く理解せずにマネタリズムの何がわかるでしょうか。

率直に申し上げて、あまりにひどい誤解が目立つので、ワプショットはフリードマンの論文をまともに読んでいないのではないかと思わざるを得ません。実際そう疑われて仕方ない記述もあります。例えば、ワプショットは、Studies in the quantity theory of money*8という論文集について、フリードマンが「長らく忘れられていた論文を集めて改めて出版(republish the long-forgotten pieces)」(邦訳134頁, 原著98頁)したものだと説明しています。ワプショットには失礼ながら、この論文集はフリードマンとその弟子たちの当時最新の研究を出版したもので、誤りだとされている古い「論文を復刻する(republishing)という単純な行為」ではありません(邦訳135頁、原著99頁)。この論文集は大きな影響を持った論文集で、例えば、この論文集に収録されたフィリップ・ケーガンの論文で使われたハイパーインフレの定義は現在の標準的定義になっていますし、フリードマン自身の論文*9も大きな注目を浴びたものです。

ワプショットは、オーストリア学派シカゴ学派の違いを無視し、極めて強引にフリードマンオーストリア学派のドグマティックな自由放任主義者の系譜に位置づけようとしていますが、これは歴史を歪めるものです。例えば、ワプショットは、「30年代には大恐慌が吹き荒れ、何百万人もの失業者が必死に仕事を求めていたというのに、シカゴの教授陣は自分たちの知的砦を固守して、人間の苦しみを緩和するために政府にできることはないと主張していた」(26頁)と述べていますが、これは事実とは正反対です。ナイト、ヴァイナー、サイモンズといった当時のシカゴ学派のリーダーたちが大恐慌からの脱出のために赤字財政と金融緩和を主張していたのは有名な話で、シカゴ・プランとして知られています。フリードマン大恐慌の際には大規模な量的緩和が必要だったことを指摘しています。ワプショットの記述は不当で偏っているとしか言いようがありません*10

ワプショットはあちこちで自分のストーリーに都合のいいように強引に事実を歪めているだけでなく、挙句の果てに個人攻撃にも及んでいます。レーガンは学生時代の経済学の成績が悪かったから経済学を理解していないとか*11サッチャーは「食料品屋の娘」(300頁)だから知的でなかったのだといった示唆とか*12、「フリードマンの性格の強いへそ曲がり的傾向」(69頁)がケインズ主義に反対した理由だとかいったおよそ根拠がない嘲弄など、延々と続く悪意に満ちた人格攻撃にはうんざりします。

ワプショットは、フリードマンとシュウォーツの大恐慌の研究を「歴史修正主義(revisionist history)」と呼んでいますが、これは読者に誤解を与える恥ずべき印象操作です。通常、「“歴史修正主義”とは、遠い過去であれ、より最近のことであれ、過去の出来事についての意識的、意図的な虚偽の説明を指す」*13もので、ナチスを賛美するホロコースト否定論など荒唐無稽な虚偽の主張に対して使われる言葉です。これはフリードマンの研究には間違いなくあてはまりようがない形容です。彼の研究は膨大な資料を利用した厳密な学術研究であり、バーナンキFRB議長、アイケングリーンカリフォルニア大学バークレー校教授をはじめ、大恐慌を研究する歴史家、経済学者の間でその価値を広く認められている学説であり、現在はスタンダードな考え方です。ワプショットはこのような侮辱的な言葉を使っていながら、フリードマンの研究の具体的な誤りを何一つ指摘していません*14。歴史的事実を歪めた記述をして恥じないワプショットの方こそ歴史修正主義者と呼ばれるにふさわしいでしょう。

ワプショットはフリードマンの「市場原理主義」にあらゆる出来事の責任を負わせようとしており、リーマンショックからトランプの台頭や議会襲撃事件まですべてフリードマンの思想の帰結だというのですが、こじつけにもほどがあります。サブプライムバブルの時代の規制の失敗と政府の持ち家促進政策で歪んでいた住宅市場や金融市場は”規制のない資本主義”とは程遠かったですし、リーマンショック市場原理主義の暴走というワプショットの見立ては的外れです。言うまでもありませんが、排外主義で保護主義、正当な選挙結果を否定する陰謀論者のトランプ元大統領はリバタリアニズムとは正反対です。まして議会の敷地に不法に侵入し、暴力で選挙の結果を覆そうとし死者まで出した極右陰謀論者の暴徒たちが、私有財産を尊重する自由民主主義の思想家とどう関係するというのでしょうか。市場経済と民主主義の密接な関係を主張した『資本主義と自由』の著者に対してこれ以上不当でばかばかしい言いがかりはありません。

率直に言わせていただくと、「サミュエルソンフリードマンか」という本書の問いはそれ自体あまり意味のある問いではなく、むしろ的外れな問いに思えます。サミュエルソンは有能な理論家だとしても、実際的な問題については優れた導き手ではありませんでした。例えば、ソ連や日本が米国を超えるといった彼の預言は全く的外れで誤っていました。フリードマンは理論家としてサミュエルソンに匹敵し、時論では遥かに優れていたといってよいでしょう。サミュエルソンは実証研究に殆ど興味のない理論家で、理論家で実証研究もできたフリードマンとは全く違います。両者の優劣を問うこと自体ずれているというのが正直な感想です。「サミュエルソンフリードマンか」という本書の問いは、優秀だが現場を知らない建築家と、建築家としても大工としても優秀な人物を比較して、大工としてどちらが優秀かと聞いているに等しいものです。しかも、著者は、現場に行ったことのない建築家を大工として優秀だと評価しているような具合なのです*15。ワプショットによると、リーマンショック後の経済危機を救ったのはフリードマンではなく、サミュエルソンの処方箋だそうでですが、大不況からの経済の復活を支えたのは当時のバーナンキFRB議長が進めた大胆な量的緩和であり、これは正にフリードマンの処方箋です。ワプショットが評価するようなサミュエルソンのエリート主義的な政策論は今や忘れ去られていますが、中央銀行には物価安定の責任があるというフリードマンの主張は広く認められています。経済理論家としてのサミュエルソンには素晴らしい業績がありますが、彼を経済思想家として高く評価する人は殆どいないでしょうし、それは当然です。経済思想家としてフリードマンサミュエルソンよりも遥かに偉大な貢献をしたことは殆ど誰もが認めるでしょう。

ワプショットはコロナ禍をサミュエルソンフリードマンに対する勝利を決定的に明らかにした出来事だと考えているようですが、介入ゼロか、それとも介入するかなどという選択肢は、フリードマンはもちろんですが、まともな経済学者は誰も議論していません。緊急事態が起きた場合には政府が”何らかの”介入することが望ましい場合がありうるというのは極端なドグマを信奉するマイナーな思想家以外は誰でも認める自明の理です。しかし何であってもとにかく闇雲に介入すればいいわけではなく、市場を活用する方がよいというのもやはり自明の理です。ワプショットには失礼ながら、コロナ禍後の欧米諸国の大インフレは貨幣を無視し、サミュエルソン流に過剰な介入をすればどうなるかの見本です。「時には介入することが正しい」*16などというそんな陳腐な理由でサミュエルソンの勝ちだというなら、こんな本を400頁以上も書く必要はなかったでしょう。フリードマンの思想は今後も価値を持ち続けるでしょうし、安易な勧善懲悪物語で否定できるほどやわなものではありません。

*1:一応念のため書くと、私の評価はやや辛口かもしれませんが、若田部先生、原田先生の評価に基本的に同意しています。

*2:この解説は最近の研究動向も紹介しており、極めて有益な解説ですので、ぜひご一読をお勧めします。

*3:こういう表現は本書に頻出しますが、フリードマンが使ったことのない言葉です。

*4:貨幣の流通速度とは、簡単に言えば、ある期間の取引の間に貨幣が何回使われるかを表したものです。

貨幣の流通速度をV、貨幣量をM、物価をP、取引量をQで表せば、これらの間にはフィッシャーの交換方程式MV=PQと言われる関係が成立しています。この式は貨幣の支払い総額(貨幣量×V)は取引総額(P×Q)に一致することを示す恒等式ですが、短期間に取引量が極端に増えることはなく、貨幣の流通速度は取引の習慣などである程度安定した動きをする変数であるとしましょう。QとVがさしあたり一定なら、Mが増加するとPが比例的に増加することになります。これは極めて単純化された貨幣数量理論です。

さて、実質 GDP(Y)と取引量(Q)には密接な関係があるので、取引額はほぼ所得に比例します。ここから、所得版の交換方程式MV=PYを考えることができます。Mは貨幣量, Vは「貨幣の所得流通速度」, Pは GDPデフレーター, Yは実質 GDP, PYは名目GDPを表します。「貨幣の所得流通速度(V=PY/M)」というのは1単位の貨幣が一定期間の所得を生み出すのに何回使われたかを表すものです。

これを増加率に直すと、近似的に、貨幣量の増加率+貨幣の所得流通速度の増加率=インフレ率(GDPデフレーターの成長率)+実質GDP成長率となります。つまり、インフレ率=貨幣量の増加率+貨幣の所得流通速度の増加率-実質GDP成長率という式が成り立ちます。この式を解釈すると、経済成長に対応して必要な貨幣量の増加分を超えるような貨幣量の著しい増加が起きれば、(貨幣の流通速度が反対方向に変化しなければ)インフレが発生するということになります。

フリードマンをはじめとするマネタリストは、貨幣の所得流通速度は予想インフレ率などの安定的な関数で、通常は極端な変化をしないし、むしろ貨幣量の増加率と同じ方向に動くことが多いので、結局、貨幣量の増加率に注目するのが適切だと主張します。これが「インフレは貨幣的現象である」というときに、フリードマンをはじめとするマネタリストが言っていることです。

少し小難しい話になってしまいましたが、ワプショットがフリードマンの学説だと主張する「インフレは貨幣の流通速度によってのみ引き起こされる」という主張がいかにナンセンスであるかはこの式から明らかでしょう。貨幣の流通速度の変化だけがインフレを起こすのだとすると、貨幣量の増加は(流通速度の逆方向の変化など物価以外の変化で相殺され)、インフレを起こさないという話になります。貨幣の流通速度の変化だけがインフレの原因なら、金融政策は無意味でインフレ率は人々の貨幣の使用の仕方で決まり「貨幣は重要ではない」ということになります。ワプショット流の”マネタリズム”は本来のマネタリズムとは正反対の主張です。

*5:なお、ケインズの『貨幣改革論』は貨幣の流通速度の変化がインフレを起こすと主張したものでは全くありませんし、ワプショットの説明は混乱しています。ケインズの『貨幣改革論』からフリードマンが影響を受けているのはもちろんですが、それはフリードマン自身がはっきり明言し引用もしているのですから言いがかりをつけられる覚えはありませんし、ケインズもマーシャルやピグーといった貨幣数量理論の大家から影響を受けて『貨幣改革論』を書いているのであって、そもそも貨幣量の変化がインフレを引き起こすという考えは古代からあるものです。カンティロン、ヒュームといった理論家が洗練された考えを既に18世紀には確立しています。

*6:これに限らず、彼の経済学説史の説明は酷く混乱しています。いくつか挙げると、ケインズと激しく対立しハイエクを支持していたロビンズをケインズの「サーカス」(ケインズの弟子の集まり)の一員であったと書いていたり(ロビンズがのちに意見を変えてケインズ寄りになったのは事実ですが、ロビンズをケインズの「サーカス」の一員とみなすのはナンセンス)、ハイエクシカゴ学派だったかのように書いたり(実際はオーストリア学派)、アイン・ランドフリードマンの”ヒーロー”だと主張したり(実際は2人は激しく対立)といった初歩的で明白な間違いがあるうえに、141頁ではオーストリア学派大恐慌の説明とケインズの説明を混同しています。ケインズ理論マネタリズムの説明も多くが間違っています。

*7: Friedman, M. (1968) “The Role of Monetary Policy,”American Economic Review 58(1): 1–17.

*8:Friedman, M. ed.,(1956) Studies in the quantity theory of money, University of Chicago Press.

*9:「数式を多用」しているとワプショットは書いていますからきっと彼には難しかったのでしょうが、13本しか数式がなく、どちらかというと平易な論文です。おそらくワプショットはこの論文集をろくに読まなかったのではないでしょうか。正直なところ、この論文集が「数式を多用」していると思うようでは(そしてワプショットのこの論文の理解度の低さから言っても)、サミュエルソンの高度な数学が理解できるとは思えません。事実、ワプショットの知識は彼が共感を持っているはずのケインズ主義についてすらあやふやです。

*10:ちなみに、この点は若田部先生の解説も指摘しており、誤りを正しています。

*11:だからどうしたんでしょうか?子供じみており失笑を禁じえません。学校の成績をいつまでも自慢し続けたりいつまでもバカにし続けたりするのは恥ずかしい話です。

*12:サッチャーの生まれは確かにエリートではありませんが、彼女は猛勉強でオックスフォード大学に合格した努力家で、政治家になってからは経済学を熱心に学んでいました。彼女ほど知的な指導者はそうそういないでしょう。失礼ながら、ワプショットよりもはるかに経済学を知っていたのは間違いありません。「サッチャーフリードマンマネタリズムに傾倒したのは知的根拠によるものではなく、直感的なものだった」(313頁)などと侮辱されるいわれはありません。なお、ワプショットはこの判断についてサッチャーの発言に対する悪意ある歪曲(しかも直接関係がない)以外に何ら客観的根拠を述べておらず、「食料品屋の娘」に対して彼が常日頃抱いているであろう気持ちから直感的にそう思っただけであると思われます。ワプショットのような温情主義的な介入主義を良しとする知識人がこのような庶民を心底軽蔑する鼻持ちならないエリート主義に染まっているのは実に興味深いことです。

*13:What Is Revisionist History? (contingentmagazine.org)

*14:歴史修正主義は、「主流派の歴史観と異なる学説」という中立的な意味で使われることもごくまれにあり、「ワプショットはただ単に”中立的に”そういう言葉を使ったのだ」と主張する向きもあるかもしれません。しかし、本書がフリードマン牽強付会に極右と結びつけようとする悪意ある記述がちりばめられた本であることを考えれば、そのような言い訳は全く通用しません。そもそも、フリードマンの学説は現在は完全にスタンダードになっており、異端の学説でも何でもありません。フリードマンナチスに強く反対し、自身もユダヤ人として反ユダヤ主義者に苦しめられた経験を持つ人であることを考えても、許しがたい侮辱です。

*15:ちなみに、経済理論家を建築家、時論を書く学者を大工にたとえた比喩は確か田中秀臣先生がどこかで使っておられた比喩ですが、どこで読んだか思い出せません(ごめんなさい)。

*16:大体そんな自明な話はフリードマンも一度として否定していないのですから。