柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

グラフの正しい読み方

著名な評論家の池田信夫先生のブログで「大分岐から大収斂そして再分岐へ」と題された興味深い記事を見かけましたので、コメントさせていただきます。この記事の中で池田先生は、IT革命による情報コストの低下で世界的な格差の収斂が起きているとし、日本の賃金低迷も世界的な要素価格の均等化が理由であると主張されています。

「日本の賃金が上がらない最大の原因も〈中略〉要素価格均等化である。図のように1995年には中国の約8倍だった日本の単位労働コスト(名目賃金/付加価値)が急速に収斂し、2010年代はほぼ一致した。これはかつて世界の製造業で独占的な地位をもっていた日本の競争力が失われたことを示している。」*1

池田先生は根拠として、次のような図を掲載されています。

ulc1

各国の単位労働コスト(2015年=100)

出所:池田信夫 blog : 大分岐から大収斂そして再分岐へ (livedoor.biz)

池田先生のご主張の是非はともかく、このグラフは先生の主張を支持しません。

第一に、ご自身でも明記されている通り、これは2015年を100とする指数です。グラフからも明らかなように2015年にはすべての国の値が100になりますが、これは2015年が100になるように決めたデータですから当たり前です。例えば、1995年を100にすれば、全く違うグラフが書けます。

このグラフからわかるのは、1995年から2022年にかけて、①中国の単位労働コストは大きく上昇している、②ドイツと日本(特に日本)の単位労働コストは低下している、③アメリカの単位労働コストは横ばいである、といったことだけです。

しかし、このグラフのデータは指数ですから、各国間の単位労働コストの絶対水準を比較することは不可能ですし、全く意味がありません。日本の単位労働コストが「1995年には中国の約8倍だった」が「2010年代はほぼ一致」したとかいった主張は誤りです*2

第二に、これもかなり根本的な問題ですが、通常、単位労働コストはむしろ上昇する方が競争力が低下する指標です。単位労働コストの上昇は価格の上昇圧力になるので、その他の条件が変化しなければ、単位労働コストが上昇している国は価格競争力が低下しがちです。要するに、このグラフからわかるのは1995年と比較して現在は中国の製品価格には上昇圧力がかかっていて、日本は低下圧力がかかっているということです*3

池田先生がこのグラフで何を言いたいのかは理解できませんが*4、日本の地位の低下や賃金の低迷を指摘したいならば、もっと適切なデータがあります。「大分岐から大収斂そして再分岐へ」というのは大変深遠でありがたいお話だと思いますが*5、まずはきちんとデータを確認すべきかと思います。

*1:池田信夫 blog : 大分岐から大収斂そして再分岐へ (livedoor.biz)

*2:イメージしにくいかもしれませんから例を出しましょう。2023年の月収を100とする賃金指数を考えましょう。1995年から2023年まで月収30万円でずっと暮らしているAさん、1995年には月収30万円だったけれども2023年には月収300万円稼いでいるCさんという人がいるとします。2023年の月収を100とする指数で表すと、1995年の賃金指数はAさんの場合100になり(30/30×100=100)、Bさんの場合は10になります(30/300×100=10)。2023年の賃金指数は当然ですがAさんもBさんも100です。この指数のデータをみて「Aさんの月収は1995年にはBさんの10倍だった」とか「AさんとBさんの月収は2023年にはほぼ等しくなっている」などと結論するなら、それがナンセンスなのは誰にでもわかるでしょう。

*3:実感から言っても当たり前でしょう。中国の賃金は上昇していますし、中国製品は今では一昔前のような単純労働の安さが売りの商品ではないですよね。

*4:恐らく池田先生は賃金が収斂していると言いたかったのであろうと思います。確かに国際経済学では要素価格均等化定理というものがありますが、日本のような先進国の熟練労働者と途上国の単純労働者を同じ労働とみなすのは無理があります。人的資本(スキルや能力)の水準が違う労働者の賃金は均等化しません。日本以外の多くの先進国では賃金が上昇していることを考えても、グローバル化や要素価格均等化で賃金低迷を説明するのは無理があるでしょう。日本経済の低迷はグローバル化のせいでも不可避な運命のせいでもないと思います。

*5:グローバル化で底辺への競争が起き、途上国レベルに賃金が低下するというのはマルクス主義経済学者ならともかく常識的な経済学者が思いつかない意見で、データにもあっていないと思いますが、さすが池田先生はおっしゃることが普通の経済学者とは全く違いますね。