柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

リカード没後200年

今日は英国の偉大な経済学者リカード没後200周年です。リカードの業績は貨幣理論から公債の中立命題まで非常に多岐にわたりますが、最も有名なのは比較優位の原理に基づく自由貿易論でしょう*1

貿易パターンを決めるのは絶対的な生産性の高さの違い(絶対優位)ではなく、相対的に得意なものの違い(比較優位)です。例えば、先進国は途上国よりもあらゆる財・サービスを効率的に生産できるかもしれませんが、だからといって、全ての財・サービスを自国で生産するのは賢明ではありません。例えば、農作物の生産を増やそうとすれば、その分、土地や労働者が必要になり、他の部門に使うことができる土地や労働者は少なくなります。農業生産を増やせば、先進国が得意なハイテク産業等の生産をその分あきらめなければなりません。資源は有限ですから、先進国は自国が相対的に作るのが得意なものの生産に特化し、途上国から農作物を輸入する方が有利です。途上国は先進国よりも生産性がどの産業でも低いにもかかわらず、相対的に得意な部門に特化することで、やはり利益を得ることができます。これは国同士に限らず、個々人の取引でもいえることです*2。比較優位の原理は極めてシンプルですが、取引と分業の利益を説明する最も強力な洞察といえます。

リカードは優れた経済理論家でしたが、象牙の塔の住人だったわけではありません。経済学者の中でもリカードほど面白い人生を送った人はそうは多くありません。20代で恋愛結婚に反対されて父から勘当され、無一文で追い出された後、天才的な投資家としての才能を発揮して若くして大成功をおさめ、晩年は経済学の研究に励む傍ら国会議員としても活躍したという小説のような波乱万丈の生涯です*3リカードの本は抽象的で難解なものが多いのですが、彼の自由貿易論は当時の喫緊の課題と密接にかかわっていました。リカードが活躍した当時の英国はフランスとの戦争の影響で穀物価格が高騰していました。穀物価格の高騰は貧困層の生活を直撃し、社会不安が蔓延していました。リカード自由貿易を唱え、地主の利益のために関税と輸出補助金穀物価格を釣り上げようとする政府の貿易政策(穀物法)に強く反対しました。

どういうわけか、昨今では自由貿易やグローバリゼーションを悪だと決めつける論調が少なくありませんが、自由貿易はむしろ弱者にやさしい政策です。19世紀の英国の労働者は「自由貿易は安いパンを意味する」ということをよく理解していました。急進派知識人はリカードの主張を強く支持しましたし、自由貿易は左派政党の公約でした。穀物法反対運動には、安いパンを求める労働者が大勢参加し、1846年にはついに穀物法撤廃が実現します。今日の実証研究によれば、穀物法撤廃で上位10%の富裕層(地主)は損失を被りましたが、90%の国民が利益を受けています*4。特に賃金上昇と穀物価格下落の恩恵を受けた労働者が最大の受益者でした。

穀物法の時代に限らず、一般に自由貿易の最大の受益者は貧困層です。貧困層の消費は、食料や衣服等の貿易財の消費が大部分を占めていますが、富裕層は住宅など高価なサービスの消費が多く、貿易からはそれほど利益を得ることはないからです。グローバリストの富裕層が自由貿易で儲けているといった陰謀論のイメージとは反対に、グローバル化自由貿易貧困層の生活を助けています*5

現在の日本でもリカードの時代と同じように、食料価格高騰が問題になっていますが、日本は一部の農産物に対して世界でも珍しい高関税と輸入制限を課している国です。当然ですが、必需品である穀物に高関税をかける政策は弱者に厳しい政策です。

ところが、反穀物法運動のような運動が起きる気配は残念ながら全くありません*6。右左を問わず、農業関税の引き下げや撤廃を提案する議員は殆ど見当たりません。本来であれば、食料価格の高騰で苦しんでいる貧困層を助けるには農業関税撤廃は真っ先に考えるべき政策だと思います。格差や貧困に心を痛めているはずの左派政党こそそういう提案をするべきだと思うのですが、いかがでしょうか。

*1:なお、教科書的なリカードモデルが実際にリカードの考えていたモデルだったかどうかについては論争があります。リカードと同時代のトレンズの方がわずかに早く比較優位を考えていたのではないかといった指摘もあります。もっとも、(正確に彼の考えたモデルが何であれ)最初に明確な表現で比較優位の原理を述べたのがリカードの『経済学及び課税の原理』(1817年)であることは確かです。

*2:他の所でも書いていますので詳しくは書きませんが、個人についての簡単な例は例えば拙著『自由と成長の経済学』第3章69-72頁をご参照ください。

*3:ちなみに、彼が経済学の研究を始めたきっかけは妻の病気の療養で温泉に出かけた時にたまたま読んだスミスの『国富論』だったといわれています。

*4:Irwin, D. A., & Chepeliev, M. G. (2021). The economic consequences of Sir Robert Peel: a quantitative assessment of the repeal of the Corn Laws. The Economic Journal, 131(640), 3322-3337.

*5:Fajgelbaum, P. D., & Khandelwal, A. K. (2016). Measuring the unequal gains from trade. The Quarterly Journal of Economics, 131(3), 1113-1180.

*6:もちろん、今後に期待してはいますが!