柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

アダム・スミスの英知

今年6月5日はアダム・スミスの生誕300周年です。スミスは、経済学の父であるだけでなく、偉大な哲学者でもありました。スミスの『道徳感情論』は、『国富論』ほど知られていませんが、人間の共感がいかにして道徳を生み出すかを説いた哲学の古典です。完璧主義だったスミスは大変寡作でしたが、この二冊の書物をはじめとする彼の研究は現代にも大きな影響を与え続けています。

それまでの哲学者は、人間はいかにあるべきか、経済や政治はどうあるべきかを語りましたが、経済や社会には法則性があり、人間はチェスの駒のように好きなように動かせるものではない(『道徳感情論』第6篇第2章)ということを忘れていました。いわば彼らは王や独裁者の観点から世界はどうあるべきかについて語ったわけです。

これに対して、スミスは、「人間の行為の結果ではあるが,何ら人間の設計の産物などではない」(ファーガソン)自生的秩序の豊かさに目を向けた哲学者でした。たとえ一人一人の人間が利己的で弱い生き物だとしても、人々の相互作用の中から生まれた経済や道徳、言語、法には自然な秩序があり、それ自身の法則があります。そうして生まれた秩序にはもちろん欠陥もあり、是正すべき点はあるのですが、それは政治家や哲学者が人々に上から押し付けようとする秩序よりも遥かに優れているものです。どのようなテーマであれ、スミスは抽象的思弁だけではなく、歴史的・経験的な事実によって意識的でない人々の行動がいかに秩序を生み出すかを見事に示しています。自由な社会への信頼、権力への健全な懐疑*1は、スミスの著作を一貫して特徴づけるものです。

自由主義的な哲学は、同時代の哲学者でスミスの親友だったヒュームやスミスの恩師であるハチスンにもみられるものですが、スミスの功績は自由主義的な哲学*2を幅広い分野に応用し、体系的な社会哲学へと発展させたことにあるといえるでしょう。

経済学についても同じことが言えます。ヒュームやチュルゴー、ガリアーニ、カンティロンなど優れた経済学の研究は存在していましたし、これらの経済学者の著作は、個々の点ではスミスよりも優れていると評価することもできるかもしれません。ですが、歴史的事実に裏付けられた統一的な経済理論を打ち立てた功績はやはりスミスのものです。現代社会の繁栄は300年前とはくらべものになりませんが、この空前の繁栄をもたらしたのは、まさにスミスが唱えた「自然的自由のシステム」、市場経済自由貿易の賜物です。300周年を祝う理由は大いにあるのです。

*1:「見えざる手」について書かれた有名な文章の少し後には、次のような文章が続いています。「民間人に対して彼らが自分の資本をどう使うべきか指図しようとするような政治家は、全く不必要な世話をすることになるだけでなく、個人はもとより、どんな枢密院や議会にも安心して任せられないような権限をもつことになるだろう。そして、自分こそこの権限を行使するに相応しいのだと空想するほど愚かで厚かましい人物がこうした権限を手にしている場合ほど危険なことはありえないだろう」(『国富論』第4篇第2章)。最近では、市場の失敗があるから「見えざる手など存在しない」などというのが流行ですが、スミスは見えざる手の欠陥には十分気が付いていました。例えば、スミスは職業教育しか受ける機会のない庶民の基礎教育の必要性を説き(第5編第1章)、いくつかの公共事業の必要性を説いてもいます。不平等や貧困、貧困層への不当な偏見の問題についても雄弁です。ただ、彼は市場の失敗以上に政府の見える手の欠陥に敏感だったのです。

*2:なお、自由主義Liberalismという言葉が生まれたのは19世紀です。スミスの時代にはliberalは「寛大な」といった意味でしばしば使われていますが、自由主義的という意味はありません。とはいえ、スミスは『国富論』の中で「各人に自分の利益を自分のやり方で追及することを許す」ような「平等、正義、自由という寛大な方針(the liberal plan of equality, liberty, and justice)」(『国富論』第4篇9章)、「自由な輸出入を認めるような開明的な制度(the liberal system of free exportation and free importation)」」(『国富論』第4篇5章)について語っています。これは19世紀に花開く古典的自由主義の構想といってよいでしょう。