柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

私事に立ち入るべからず

世間のニュースを見ていると、自分には直接関係のない話に、どうしてそこまで関心を持てるのか、不思議になるときがあります。誰が誰と結婚するか、夫婦がどんな姓を名乗るか、どんな性的志向を持っているか、プールで誰を撮影するか*1、どんな漫画、写真その他を見るか、誰かと不倫したか等々、基本的には当人以外にとってどうでもいいことではないでしょうか。こういった問題を熱心に議論し、規制を導入したり、法律で縛ったりと大変な熱意を持っておられる方が多いのは承知していますが、そんな情熱はとても持てそうにありません。

こういった話は右であれ左であれ(あるいはそうした政治とも関係なく)大きな問題になり、公的な事柄として議論されるのは本当のところ不可解なことです。私的な事柄は本人たちに決めてもらい、他人は余計なことに関わらないというのではどうしていけないのでしょう。普段の生活では、ご近所の人のそういった話題にくちばしを入れる人はそう多くないと思います。ゴシップで話のネタにする人はいるでしょうが、敢えて当事者の所に本当に首を突っ込んで何かするような人は、よほどおせっかいな人だけです。政治的な話題にせず、本人たちに任せて悪い理由が何かあるでしょうか。

「いや、こういった問題は公的な事柄で、政治的に決めるのが正しいのだ」といわれるかもしれませんが、社会が進歩してきたのはより多くの事柄を私的な事柄として扱うようになってきたからです。近代社会を生み出した自由主義の知恵は、私的領域と公的領域を分離するという工夫でした。主として本人にしかかかわりがない事柄は本人に任せるという合意が多様性のある社会を生み出し、それが進歩の原動力になってきました。時代が進むにつれて、ますます多くのことが個人の自由に任せられるようになってきたのは明らかです。

近代以前には宗教の信仰をはじめ、ありとあらゆる問題が公的な問題だったわけですが、とりあえず、違いはあるけれども、そういう問題はわきに置いておきましょうという約束事ができたわけです。人類は宗教戦争の絶えない社会からこの発明によって抜け出してきたのです。私的領域と公的な領域を分離し、私的領域は公的な介入の対象とはしないという約束があるからこそ、異なる信条の持ち主同士であっても平和的な協力が可能なのです。他人の自由を侵害しない限り、個人はプライベートな領域では自由に行動することができるというのが近代社会の原則です。

他人から見て不愉快な趣味や間違っているとしか思えない行動や意見は少なくありませんが、そこに無関係な第三者やましてや強制力を持った国が踏み込んでくるようになれば争いの種は尽きることがないでしょう。全てのことが政治的である社会は必然的に不寛容な社会です*2自由主義の約束事はある意味ではフィクションかもしれません。厳密に言えば、他人を侵害しない活動など存在しない、全てのことは政治的であるし、個人的なことなど存在しないのかもしれません。しかし、全てのことが政治的に決まる社会は、「政治的に正しい」意見を人々が互いに押し付け合い、多様な個人に対して画一的に一つの意見が押し付けられる社会にならざるを得ません*3

人の考え方は一人一人違っていて当然です。誰もが同じ意見の社会というものはあり得ません。夕食に何を食べたいか、週末は何をして過ごしたいかといった些細なことですら同じ意見の人は殆どいません。どの宗教を信じるか(あるいは何も信じないか)といった話題では対立はもっと深刻になります。互いに違いを認め合い、私的領域には干渉しないというルールが平和な社会には不可欠ですし、自由を認める領域が広い社会の方がより創造的で暮らしやすい社会であるのが普通です。

*1:「水着撮影会に未成年が参加していることは問題」といった議論はもちろん話をより複雑にしますが、一律禁止の理由にはならないでしょう。

*2:1960年代の米国では「個人的なことは政治的なことである」というスローガンが一世を風靡しました。家族の在り方や個人的なことと思われていることは実は政治的問題なのだというのです。当時の米国には人種差別的・性差別的法律が堂々と存在していましたし、暴力的な文化が色濃かった時代ですから、差別撤廃運動は必要でしたし、このスローガンは重大な差別をなくす上で啓発的だったかもしれませんが、このスローガンの意味することは文字通りに受け取れば極めて危険な発想です。

*3:私的所有権が存在しない社会主義社会では、必然的に全てのことが政治的になります。政府や共同体が所有しているものの使い道は、当然政治的に決めることになるからです。自由市場がない社会主義が常に抑圧的な社会につながる理由です。