柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

LGBT理解増進法について

今回は6月16日に成立したLGBT理解増進法を取り上げたいと思います*1LGBT理解増進法には賛否がありますし、皆さんは様々な意見をお持ちだと思います。どのような意見があっても良いのですが、法案への賛否はともかく、法案が成立すると性犯罪が激増し、「日本の国柄が変わる」とか「日本が終わる」といった議論は明らかに行きすぎではないでしょうか。

LGBT理解増進法が成立すると銭湯やトイレなどにトランスジェンダーを装った変質者が侵入する事件が多発するのではないか」というのが一部の反対論者の主張ですが*2、法案の成立でそうした事態が起きるリスクがどの程度あるのか合理的見積もりが必要です。根拠の乏しい極端な議論はLGBTの方への偏見を煽ることになりかねません。

既に日本には性的指向性自認及び性的少数者に対する差別的な取扱いを禁止することなどを規定している条例をもつ地方自治体は既に71自治体あります*3。問題が起きていないというと異論があるかもしれませんが、少なくとも「心は女といえば女湯に入れる」とか「女性用トイレに侵入する変質者が激増した」といったことは起きていません。殆ど代わり映えのしない内容の法律ができるだけなのに、なぜリスクが顕著に高まるのでしょうか。そう主張するならば合理的説明が必要でしょう。

そもそもLGBT理解増進法は理念法であり、罰則もありません*4。もちろん「女性を名乗った者は誰であれ女湯に入ることができ、銭湯経営者はこれを拒否すると処罰される」などといったことは全く規定していません。犯罪防止の観点から生物学的男女の身体的特徴に基づく規定を設けるのは「不当な差別」*5に当たらないと考えられます。日本維新の会、国民民主党の提案を受け入れた修正案では「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」ことも明記されたので、尚更そうした解釈にはなりえません。理念規定が悪用されうるというだけでは、法案修正を求める理由になりこそすれ、法案それ自体に反対する理由にはならないでしょう。

確かに日本でもトランスジェンダーを装ったり女装したりした変質者が女湯に入ろうとした事件は昔からありますが、事件からわかるのは、性犯罪者はLGBT理解増進法があろうがなかろうが無関係に犯罪行為をしてきたし、処罰されてきたということです。そうした事実を持ち出しても、LGBT理解増進法が成立すれば犯罪が激増するという証明にはなり得ません。性犯罪者は元々特殊ですし、その数が法案成立で大きく変わる可能性は極めて低いでしょう。公共施設の更衣室の利用でトラブルが起きるケースやどこで境界線を引くべきかが微妙なケースがあるのは確かだと思いますが、そうしたトラブルは現時点でも起きていますし、法案の成立で激増するとも言えないでしょう*6。不審者にはこれまで通りの対応をすればよいことです。

また、トイレに関してですが、「誰でもトイレ」は、既に少なくない駅や公共施設にありますし、カフェや居酒屋ではスペースの都合でトイレが男女共用である場合は昔からあります。そもそも、現時点でもトイレの利用は利用者の善意に委ねられているといえます。トイレを利用する際に、男性か女性か生物学的特徴の確認を求められたりすることは通常ありえません。常時監視している警備員がいるわけでもありません。現時点でも生物学的区別に基づく利用を促す強制力ある仕組みは特に存在しないといえます。それでも、トイレに不審者が侵入する事件は(もちろんありますが)極めて稀で、社会秩序は保たれています。法案成立でそれが魔法のように崩壊するというのはありそうにないですし、そのようなことが起きるといえる説得的理由もありません。

法案成立後に、巡回中の警備員等が女子トイレで不審者を発見しても(あるいは利用者の苦情で不審者を排除しに来ても)、その人物が「私は女だ」と主張したら排除できなくなるという主張もありますが*7、そのような弱腰の対応をとる施設からは顧客が離れるでしょうし、不審者だと合理的に判定できる人間を排除する圧力は十分働くはずです。LGBT理解増進法には「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」規定が存在する以上、仮に不審者が「私は女だ」と主張しても、施設管理者、警備担当者は犯罪防止の観点から挙動の不審な人物を問題なく排除できるはずです。例えば、長時間トイレに滞在し、不審な行動が見受けられるという苦情があった場合に、警備員が不審者を排除するのは別に差別には当たらないと正当に主張できるでしょう。

性犯罪の懸念の他、LGBT教育の在り方やスポーツ競技での公平性をめぐる問題等も議論されていますが、LGBT理解増進法が成立すれば、自動的に不適切なLGBT教育で性転換手術が激増するとか、必然的にスポーツで女性が不利に取り扱われるようになるわけではありません。海外のLGBT政策の失敗例や一部の活動家の言説への批判は警鐘を鳴らす意味では大切でしょうが、LGBT理解増進法が成立すると直ちに同じことが起きるというのは飛躍しています。「いったんAを認めると、B,C,…Zも認めざるを得なくなる。Zは破滅的な事態だ。だから、Aを一切認めるな」というのは、いわゆる「滑りやすい坂」論法です。LGBT理解増進法を認めることが自動的に過激な政策につながるとは言えません。LGBT理解増進法にこれだけたくさんの方が反対なのですから、日本が滑りやすい坂を転げ落ちていくようなことが起きるとは思えません。

もちろん、法案を通すことに「何らかの」リスクはあるでしょうが*8、そのリスクの大きさを過大に見積もり過ぎてはいけません。便益とリスクの両方を考える必要があります。これは常々、環境問題やコロナ感染予防でゼロリスクを求める左派リベラルに対して保守派の皆さんが言っていることですが、LGBT理解増進法の問題では、むしろ保守派の方がゼロリスク信仰に陥っていないでしょうか。ダブルスタンダードは良くないでしょう。成立した法案では「不当な差別」という法律用語と「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」規定を加えたことで、懸念は払拭されたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

誤解のないように書いておきますが、だからといって私は別に何が何でも法案に賛成すべきなどと言うつもりはありません。私が指摘したような論点を認識しつつ、LGBT理解増進法に合理的に反対することは十分可能です*9。とはいえ、遥かに悪い法律がたくさんある中でLGBT理解増進法案にとりわけ強く反対する意義は乏しいと思いますし、起こりそうにない事態をもとにした法案への批判は、むしろ反対派の論拠を弱めるだけですから、根拠の乏しい批判を武器にするのは反対派にとっても好ましくないでしょう。肝心なのはいずれにせよ、データと証拠、物事の軽重のバランスです*10

なお、私自身はこうした理念法の制定が批判者の主張するような日常生活の激変をもたらす可能性は極めて低いと考えますが、同時に、理念法の制定が大きなメリットをもたらすという主張にも懐疑的です。残念ながら、今回の法案の審議の過程でむしろ差別的な偏見や誤解が強まったのではないか懸念されます。政府の施策としては、単に理解増進を求めるのではなく(法律で「差別するな」と言ったところで差別がなくなるわけではありませんから)、同性婚を認める等の措置で法的平等を保障する方がより重要だと考えます*11

仮に日本国憲法の規定上*12、難しいなら、2015年以降多くの自治体で導入されているパートナーシップ制度を拡充し、結婚と実質的に同等の法的保護を認めるのが望ましいと考えます。なお、2023年6月14日時点で、パートナーシップ制度の導入自治体は少なくとも328あるそうです*13。こうした制度の全国的な導入は検討に値します。いずれにせよ、誰もが人権を尊重される社会が実現することを望みますし、そのための議論をしっかりやっていきたいものです。

*1:念のため言っておきますが、私はこうした問題の専門家ではありませんから、間違っていることもあるでしょうし、専門外のことをあれこれ断定するつもりはありません。個人的にも尊敬する方の多くが私と違う意見ですので迷ったのですが、やはり参考までに意見を書いても良いだろうと思いましたので公表することにしました。法案の問題点や改善すべき点があれば指摘するのは大事ですし、それを否定するものではありません。私はただ議論の材料を提供したいだけです。法案を支持するかどうかは皆さんの判断にお任せします。

*2:性犯罪への悪用の懸念はもちろん理解できますし、だからこそ、法案提出までに議論があり、自民党内の議論や与党と日本維新の会・国民民主党との修正協議もあったわけでしょう。

*3:性の多様性に関する条例 | 法制執務支援 | 条例の動き | RILG 一般財団法人 地方自治研究機構

*4:海外の事例をもとに、差別禁止の弊害を指摘する方もいますが、今回の法案は罰則はありませんし、海外の事例をそのまま当てはめるのは妥当ではありません。

*5:「不当な差別」という言い回しは「正当な差別」があるのかといった批判を招きがちですが、これは法律用語であり、障害者差別解消法等の他の法律でも使われている表現です。例えば、次の解説をご覧ください。文部科学省は障害者差別解消法における不当な差別的取扱い及び合理的配慮の基本的な考え方を示していますが、それによると「正当な理由に相当するのは、障害者に対して、障害を理由として、財・サービスや各種機会の提供を拒否するなどの取扱いが客観的に見て正当な目的の下に行われたものであり、その目的に照らしてやむを得ない場合である。関係事業者においては、正当な理由に相当するか否かについて、個別の事案ごとに、障害者、関係事業者、第三者の権利利益(例:安全の確保、財産の保全、事業の目的・内容・機能の維持、損害発生の防止等)の観点から、具体的場面や状況に応じて総合的・客観的に判断することが必要である」となっています。LGBT理解増進法でもこれに準じた取り扱いになるのは当然でしょう。

*6:そもそも皆さんは年に何回銭湯に行くでしょうか。多くはないと思います。令和3年度衛生行政報告例によれば、2021年度の公衆浴場数は2万3780(公営は3785)となっていますが、このうち一般公衆浴場は3120(公営は305)に過ぎず、年々減っています。

*7:こうした事件が起きること自体稀ですし、警備員が常時巡回しているような場所で事件が起きることは尚更稀ですから、こうしたシチュエーションが発生することはありうるとしても稀でしょう。

*8:これは具体的に法案の条文がどうというのではなく、ゼロリスクはあり得ませんから、「何らかの」リスクは絶対にあるという意味です。

*9:例えば、法案から得られる利益はわずかで、事務手続き等を増やすコストの方が大きいと信じるべき合理的理由があるという意見はありうるでしょう(仮にこうした主張をする場合には、やはりそれなりの蓋然性のある証拠を示す必要があります)。また、より優れた対案があるという理由で反対だというのは全くありうる議論です。例えば立憲・共産・社民の法案やそのほかの提案に賛成している方で与党案に反対の方は当然そういう議論をしているわけです。

*10:性犯罪激増を理由に法案に反対された方は当然、今後、性犯罪が激増しなかった場合は反対を撤回されるのだろうと思います。そうなる可能性は極めて低いと思いますが、仮に、今後、性犯罪が①法案の成立後、統計的に有意に増加し、②それが法案の結果であることを示す説得的理由(実証的根拠)が提示されるならば、私はもちろんこの論説を撤回しますし、その意見をここで紹介するつもりです。

*11:少々喩えは悪いですが、例えば、黒人を法的に差別する白人至上主義国家が、黒人の権利を制限したままで人種理解増進法を定め、人権教育を決めたとしても意味が乏しいでしょう。権利の制限を撤廃する方がよほどよいはずです。

*12:憲法24条から結婚は「両性の合意」が前提なので、同性婚が認められないという憲法解釈が正しいとすればです。私は法学者ではないので、この解釈が妥当なのかどうかについては判断できません。リベラル派は24条の字義通りの解釈を否定し、保守派は24条の字義通りの解釈にこだわっています。これは憲法9条に関する保守派とリベラル派の解釈の相違とはちょうど反対でとても不思議ですね。

*13:日本のパートナーシップ制度 | 結婚の自由をすべての人に - Marriage for All Japan -