少しお知らせが遅くなってしまいましたが、『週刊金融財政事情』 2024年7月16日号に森村進著『正義とは何か』(講談社現代新書) の書評を掲載していただきました。ぜひご覧いただければ幸いです!
『正義とは何か』 | きんざいOnline (kinzai-online.jp)
森村進先生はロックの所有権論を現代に蘇らせた自然権論的リバタリアニズムの理論家であり*1、現代の日本を代表する法哲学者の一人です*2。森村先生の『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』や『リバタリアニズム読本』などを手に取ってリバタリアニズムに関心を持ったという方も多いのではないでしょうか*3。私自身は帰結主義的なアプローチですし相続や遺贈に関する立場*4などいくつかの点では森村先生のご主張には必ずしも賛成しませんが、そのご研究から大きな刺激を受けてきた一人です。
本書『正義とは何か』は、講談社現代新書から出る森村先生の2冊目の本になりますが、正義をめぐる西洋思想史を独自の視点で描く興味深い作品です。正義論を帰結主義、義務論、契約主義、徳倫理学の4パターンに整理し分類した第1章は、西欧の正義論の流れを理解する上で、明快な見取り図を提供しています。
プラトン、アリストテレスから始まり、ロールズまでの様々な正義論が取り上げられますが、しばしばこの手の解説書にありがちな通史的な平板さとか特定の哲学者への無批判な礼賛や弁護等とは全く無縁です。それぞれの哲学者の理論を的確にまとめ、その貢献を公正に評価しつつも、批判的距離を置いて紹介しています。正義を説きながら高貴な嘘を正当化したプラトンへの批判や、行為の帰結や幸福を軽視し、女性蔑視や同性愛者への差別的偏見とも無縁ではなかったカント倫理学の欠陥の批判などは鋭く痛快です。
特に興味深いのは、本書の最終章のロールズの正義論への批判です*5。ロールズ流の発想では、経済的利益は社会的な協働作業から生み出されるもので、その利益は社会全体で公正に分配すべきだとされます。社会の中の個人の高い所得や地位は社会的協働の産物で、個人が持って生まれた能力や才能も偶然的ですから生得的な所有権や自然権のようなものは存在しません。これはロールズ以前の自然権や人間の権利を議論してきた正義論の伝統からの大きな逸脱です*6。
もちろん、私たちの成功や失敗は偶然的ですが、経済的な利益というのは天から降ってくるのではなく必ずそれを生み出した人がいます。それが偶然であろうと何であろうと、それに”値する”かどうかはともかく、新しい価値を生み出した人には少なくとも何らかの権利があるのではないでしょうか?他の誰もその存在を知りもしない資源や全く新しいアイデアを発見した人に対して社会が強い権利を主張できるとは思えません。
出生や生来の能力の不平等は本人の功績ではなく、努力家だといった性格も、もともとの遺伝や偶々備わった性格だから、やはり本人の功績ではないというのは一つの考え方ではあります*7。人はどんな富にも労働の成果にも”値しない”かもしれませんが、だからと言って何故それが社会のものになるのでしょうか*8?。
そもそも、社会の中で活動する個人の成功は社会に依存したもので社会のおかげだから、その成果は社会全体で分けるべきだというときの「社会」とは何でしょうか。きわめて抽象的な話をしていながら、ロールズが当然のように前提にするのは、結局は現在の国家であり、再分配の対象は基本的に自国民です*9。
「ロールズの正義論においては、諸個人の生来の能力も素質も性格も性別も、育った環境もそれらに影響された現在の願望や利害もすべて偶然的なのだが、ただ一つそうではない性質がある。それは当人がどの国に属するかだ。ロールズの言うところでは、人は自らが属する社会に属していなかったらどうなったかを知ることができず、それどころか「おそらくそうした考えが意味をなさない」のだった。…〈中略〉…別の言い方をすれば、ロールズ正義論における自由で平等だといわれる人のアイデンティティは、生来の性質でも生き方でも信条でもなくて、国民という地位だけに依存している。ロールズの発想では、人はたまたま男や女に、またたまたま何らかの才能や性格を持って(あるいは持たずに)生まれつくが、偶々ある国の市民になったわけではないのだ。」*10。
偶々どの国に生まれたかというのは、偶々どんな才能を授かったか、どんな性格に生まれついたか、あるいはどんな性別かといったことよりも遥かに偶然的な問題ではないでしょうか。あらゆる個人の属性を偶然的とみなすロールズが国境で人を区別するのはまるで正当化できません。
実際問題として、移民や難民を考えてみれば、国家を変える人は無視できない数いることも明らかです。貿易を通じて世界経済は繋がっていますし、多国籍企業の社員は、無関係な自国企業よりも外国の工場労働者に負うところが大きいかもしれません。海外とは縁がないつもりでも、現代人の生活はAmazonやGoogle、Appleといったグローバルに活躍する企業に支えられています。国家を特権的なものとみなし、社会と同一視する議論は控えめに言っても説得力を欠いていますし、極めて反自由主義的です*11。
社会が利益を生み出す協働作業だといった言い方は比喩的な言い方です。社会とは、特定の目的を持った組織ではなく、多様な目的や信念をもって協力し合っている個人の集まりに過ぎません。個人の権利に優先する「社会」というようなものはありません。伝統的には正義の原理というのは人々の権利を守り、多様な目的を持つ人々が平和的に協力し合うことができるようなルールだと考えられてきました。ロールズ流の社会の基礎構造を定めるといった話ももちろんそれはそれで大事ではあるでしょうが、森村先生の指摘されるように、もっと個別的な正しさ、市民社会の私人間や私的団体間の関係に関わる正義、所有権法や契約法、不法行為法といった財産法や刑法にかかわる正不正の問題にももっと注意が向けられるべきでしょう。これこそ伝統的な正義論がずっと議論してきた問題なのです*12。
本書において、森村先生は生命、財産、自由などの他者の権利を尊重し守ることを正義とするロックやスペンサーの自然権論に好意的ですが、アリストテレスの徳倫理学や功利主義等についても、その限界を指摘しつつも独自の貢献を認め、公平に評価しています*13。本書は哲学的に考えるとはどういうことかの見事な演習問題集といえるでしょう。政治哲学の面白さを味わうことのできる一冊です。
*1:森村先生の『財産権の理論』、『ロック所有権論の再生』等は、自然権リバタリアニズムの立場を日本で多分最も早い時期に明確に打ち出した研究と言えるでしょう。ノージックなどに近いですが、二番煎じなどでは決してない独創的研究です。
*2:森村先生の業績はリバタリアニズムだけでなく、幸福論や人格の同一性の哲学的問題など多岐にわたります。
*3:森村先生は多くのすぐれた哲学書の翻訳もされていて、これも大きな業績であると思います。ハート、パーフィット、ノージック、ドゥオーキン、シンガー等の翻訳は欧米の哲学の基礎知識を知るうえで、重要なお仕事だと思いますが、私の一番のお気に入りはデイヴィド・フリードマン『自由のためのメカニズム』(勁草書房)です。これは無政府資本主義の古典です。賛成するにせよしないにせよ一度は読んでおく価値のある本です(私は無政府資本主義者ではありませんが、その提案の多くに賛成です)。ハーバート・スペンサー『ハーバート・スペンサー コレクション』(ちくま学芸文庫) 、イリヤ・ソミン『民主主義と政治的無知 ― 小さな政府の方が賢い理由』(信山社)などもおすすめします。
*4:私は特に相続税に関する森村先生のご主張とは大きく立場が異なります。
*5:なお、サンデルの正義論への森村先生の徹底的な批判は『法哲学はこんなに面白い』4章をご参照ください。こちらも素晴らしいものです。コミュニタリアニズムへの批判やリバタリアニズムの正義論の論考は『リバタリアンはこう考える』にも収録されています。
*6:自然法論者は、まず人間の自然権から出発し、それを守るための社会制度を提唱したわけですが、ロールズの世界はまず正しい社会制度の問題が先にあります。正義論の伝統的なアプローチは、個人間の関係や権利の問題から出発するボトムアップのアプローチであるのに対し、ロールズのアプローチは、まず国内の社会の基礎構造が先にあるトップダウンのアプローチです。
*7:この議論の帰結は、本人の功績など何一つなく、殺人鬼と慈善活動家には何の違いもないというシニシズムになるでしょう。
*8:社会はその富に”値する”のでしょうか?私たちは社会の所有物でしょうか?
*9:この傾向は特に晩年の『万民の法』ではより一層明確です。有名な「無知のベール」の議論は自分の利害や立場にとらわれずに他者に対して想像力を持ち、公正な判断を下すべきであるという要請としては理解できるものですが、ロールズの想像力は国境の外にまでは及ばないわけです。
*10:森村進(2024)『正義とは何か』講談社現代新書,239-240頁.
*11:普遍的な正義を議論できないような正義論には欠陥があるといわざるを得ないでしょう。
*12:なお、今年はロールズに抗してリバタリアニズムを説いたロバート・ノージックの名著『アナーキー、国家、ユートピア』の刊行から50周年に当たる記念の年ですから、リバタリアニズムの優れた著作が出ることを期待したいものです。
*13:ロバート・ノージックもそうだと思うのですが、森村先生は哲学的議論を純粋に楽しむことのできる方なのだと思います。勝つための議論に熱中し挙句の果てに誹謗中傷に及ぶような昨今のSNSの論客にはぜひ見習って欲しい姿勢です。