柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

ケネディvs.フリードマン

石破首相が報道番組でケネディの演説を引用したことが話題です。

「国が何をしてくれるかを聞くな、一人一人が国のために何ができるかを聞けということをケネディが言いましたね。それは私はそうだと思っています。ですから、消費税を下げる…〈中略〉…これを下げることは当面考えておりません。」

消費税減税などもってのほか、国民は黙って税を払えというわけです*1。減税を拒否するのに、全く文脈の異なるケネディ演説を持ち出すのはいかがなものかと思いますが、こういう発想は石破首相のお気に入りの発想であるようです。石破首相は近著でも清水幾太郎を引用して次のように述べておられます。

清水幾太郎の『戦後を疑う』(講談社・80年6月)にも、政治家の資格とは何かというくだりがあります。

「国民が厭がっているもので、しかし、国家の将来にとって絶対に必要なもの、そういうものがあるでしょう。それを国民にやらせる、納得させる、それが駄目なら強制する、それが政治家の仕事だと思います。」

いずれも日本社会や政治の本質をついている箴言ではないでしょうか。民主主義社会における為政者と国民との関係のあるべき姿について、私は今でもこれが一番わかりやすい説明だと思います。*2

こちらはあまり問題にならなかったようですが、ケネディ演説よりもある意味でもっと過激です。「国家の将来にとって絶対に必要なもの」(だと政治家が自分で勝手に判断したもの)を「国民にやらせる、納得させる、それが駄目なら強制する、それが政治家の仕事」だとはずいぶんと物騒な話です*3

石破首相は選挙後に防衛増税を具体化させることを明言していますが、防衛増税は「国家の将来にとって絶対に必要なもの」だから「国民にやらせる、納得させる、それが駄目なら強制する」なんて考えていないといいですね*4

国民に痛みを強いる指導者というのはなぜか政治家が憧れる存在のようです*5。自分は無知な国民とは違って国の未来を見通していて国の将来を担っている特別な人間なんだという思いに浸るのはさぞ心地よいのでしょう。ケネディや清水のような言葉は、多くの政治家*6が国民に言いたがっている言葉であり、実際にしょっちゅう言っている言葉です。

しかし、こういった考え方は根本的に非民主的であり、民主主義社会における為政者と国民との関係のあるべき姿とは正反対のものでしょう。民主主義社会の在り方について考えた素晴らしい思想家はたくさんいるのですから、読書家の石破首相がよりにもよってこんな代物を引っ張り出してきたのは残念です。もっと読むべき名著や名演説はいくらでもあるでしょう。

私がお勧めしたいのは、米国の偉大な経済学者ミルトン・フリードマンの古典、『資本主義と自由』です*7。『資本主義と自由』からフリードマンケネディ批判を少し長くなりますが、引用しましょう。

ケネディはしばしば引用される大統領就任演説の中で次のように言っている。「あなたが国に何をしてもらえるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問いたまえ」。この一節をめぐる論争ではその内容よりも何が出典かばかりに注目が集まっているが、このことは私たちの時代の風潮をよく表しているといえよう*8

この一節の前半も後半も、自由な社会の自由人の理想に値するような市民と政府の関係を表してはいない。前半の「あなたが国に何をしてもらえるか」という温情主義的な言葉は、政府は保護者であり、国民は被後見人であることをほのめかしている。これは自分の運命を自分の責任で切り開くという自由人の信念とは相いれない。

後半の「あなたが国のために何ができるかを問いたまえ」という有機体説的な*9言葉は、政府は主人で国民はしもべ、あるいは政府は神で国民はその信者のようなものだと示唆している。自由人にとって、国家はそれを構成する個人の集まりであり、それを超えた存在ではない。自由人は共通の遺産を誇りにし伝統に忠実ではあるが、政府とは手段や道具に過ぎず、贈り物をくれる庇護者でもなければ盲目的に崇拝し仕えなければならない主人や神でもないと考えている。国家目標とは、国民一人一人が目指している共通の目標として以外には認められない。

自由人は「自分が国に何をしてもらえるか」も「自分が国のために何ができるか」も問いはしないだろう。むしろ各自が個人として責任を果たし、私たちの目標を達成するために、そして何よりも私たちの自由を守るために「私と仲間たちは政府を通じて何ができるか」を問うだろう。そして、この問いに加えて、もう一つの問いを付け加えるだろう。それは、「私たちが自由を守るために作ったはずの政府がフランケンシュタインの怪物のようになり、自由を破壊してしまうのを防ぐにはどうすればよいのか」という問いである。」*10

これが書かれたのは60年以上前ですが、付け加えるべきことは殆どありません。民主主義社会における為政者と国民との関係のあるべき姿について、私は今でもこれが一番わかりやすい説明だと思いますが、いかがでしょうか。

ケネディの言葉を「すべての政治家が国民に言うべき言葉」だなどと称えていた政治家がいますが、私はフリードマンの言葉こそ、すべての国民が政治家に言うべき言葉だと思います。民主主義の素晴らしい点は、自分が主人だと勘違いしている政治家に有権者がNOを突き付けることができる点です。

 

追記:石破首相が引用すべきだった米国大統領の演説はこちらです。

*1:まずそもそもの問題として、税金は国民が支払ったものです。減税を求めている人は「国に何をしてもらえるか」を期待しているのではなく、「ろくな使い方をしていない税金を返せ」と言っているわけです。減税を要求する人を施しを求める人のように見なすのは逆立ちした見方ではないでしょうか。

*2:石破茂『保守政治家 わが政策、わが天命』講談社,170-171頁.

*3:なんですって?「清水幾太郎のすばらしさをお前は分かっていない!文脈を誤解している。真の保守とは…」(以下略)。正直に申し上げましょう。「真の保守」が何のことかわかりませんし、興味もありません。私は書いてある文章から常識的に読み取れることを読んでいるだけです。

*4:石破首相は法人税増税が持論ですが、立憲民主党の野田党首も法人税増税を主張していますから、このままいけば自民党が勝っても立憲民主党が勝っても増税が実施されるでしょう(自民にも立憲にも増税反対派はいますが)。どの党を支持すると公言する気はありませんが、増税を阻止する選択肢に投票することをお勧めします。

*5:公平を期して言えば、ケネディのファンは石破氏だけではありません。ずいぶん前ですが、私が学習院大学の学生だった2012年に小泉進次郎氏が学習院の文化祭に来たことがありました。小泉氏は石破首相が今回引用したケネディの演説を引用し、「すべての政治家が国民に言うべき言葉」だと讃えておられました。小泉氏はことあるごとにケネディを尊敬していると述べておられますし、「ケネディの精神」の大切さを説いていますから、心からそう思っておられるのでしょう。「もし小泉進次郎フリードマンの『資本主義と自由』を読んだら」何か良いことが起きる可能性に期待するのは望み薄でしょう。

*6:もちろん、例外はいますが、自分が国民の主人だと勘違いしている多くの政治家。

*7:邦訳は,ミルトン・フリードマン (2008)『資本主義と自由』(村井章子訳, 日経BP社)で手軽に読めますから是非ご覧ください。

*8:フリードマンがこれを書いた当時はケネディ大統領に誰もが喝采を送っていた大きな政府全盛の時代です。幸いにも、当時とは違って、現代の日本では、石破首相が引用したケネディの演説の考え方には大きな批判が集まっています。現代の日本では大きな政府を礼賛する思想には共感よりも反発の方が強くなったということでしょう。流れが変わったのは大変喜ばしいことです。

*9:国家は一つの生命体のようなもので、個人を超えた存在だという考え方。

*10:Milton Friedman(1962) Capitalism and Freedom,The University of Chicago Press, p.1.