柿埜真吾のブログ

日々の雑感を自由に書きます。著書や論考の紹介もします。

クリスタルナハト

11月9日~10日は、1938年のナチスによるユダヤ人迫害、いわゆるクリスタルナハト(水晶の夜)から85年の節目に当たります。ガザでの軍事作戦を巡りイスラエルへの批判が高まっていますが、この機に乗じて反ユダヤ主義を煽ろうとしている勢力があることにも注意すべきです。歴史に学び、同じ過ちを繰り返さないようにすべきです。

善意であっても反イスラエルの独善的な正義感の暴走は危険です。例えば、イスラエルの製品へのボイコットを呼びかけるBDS運動は良い例です。BDSは一見すると倫理的に見える素晴らしい行為に見えるかもしれません。

しかし、BDSが決して新しいアイデアではないことを思い出すべきです。それはナチスのKauf nicht bei Juden!(ユダヤ人から買うな!)の再来に他なりません。BDSはイスラエル人(当然ながら政府を支持する人もしない人もいます)に対する集団懲罰であり、イスラエルで暮らすアラブ系住民(人口の約2割を占めています)の雇用や生活にも打撃を与えることになります*1

歴史的に見ても、経済制裁は大抵の場合、体制の転換には殆ど効果がありませんし、制裁がイスラエルの政策を変える見込みは殆どないでしょう。そもそも、パレスチナの有力な組織の中にはイスラエル殲滅を掲げるテロ組織もあるわけで、イスラエルが譲歩するとしても問題がそう簡単に解決するとは思えません。イスラエル=悪というほど話は単純ではありません*2

イスラエルのボイコットを熱心に呼びかける方々が、37万人の死者を出しているイエメン内戦に介入して病院を爆撃しているサウジアラビアや、50万人以上の死者が出ているウクライナ戦争を続けるロシア、内戦で40万人以上の死者を出して住民を虐殺しているシリア、リビアアゼルバイジャンアルメニアの紛争に介入するトルコといった国々のボイコットに熱心でないのはどうしたわけでしょう*3。非民主的で住民を虐殺している国はたくさんあるはずです。彼らの良心はイスラエルが関係するときだけ目覚めるのでしょうか。多くの国ではBDSは反ユダヤ主義の一種とみなされていますが、それは正当なことではないでしょうか。民間人の犠牲者を軽視した軍事作戦には問題があるとしても、ボイコットが正しい答えとはとても思えません。

そもそも日本はこの問題の当事者ではなく、中東への影響力も極めて限定的です。また残念ですが、私たち一人一人がこの紛争に対してできることは殆どないですし、平和を祈ることぐらいしかできません。そんな中でネットで得た不確かな情報で勝手に一方の当事者への憎悪を募らせても意味がありませんし不健康なだけです*4。変な正義感に駆られて、よく知りもしないことをするのは、良かれと思ってしたことでも、かえって深刻な人権侵害を引き起こすことになりかねません。

*1:BDSのような運動は、見知らぬ人同士の協力を可能にする市場経済の働きを意識的に破壊するものとも言えます。市場では、売り手や買い手がイスラム教徒かキリスト教徒かそれともユダヤ教徒か、ユダヤ人かアラブ人かといったことは通常誰も気にしていません。消費者は、売り手がどんな人であろうが良い製品を売る売り手を支持しますし、競争的市場の売り手は偏見で買い手を差別すれば損失を出しますから買い手がどんな人であれ歓迎します。例えば、反ユダヤ主義のアラブ民族主義者であっても、ユダヤ人の売り手の製品を買うこともあるでしょう。反イスラム感情の強いユダヤ教徒の起業家でも有利な取引のために敬虔なイスラム教徒の取引業者から部品を買うかもしれません。直接的に相手を知らなくても間接的に協力し合い、同じ一つの製品の製造にかかわっているかもしれません。市場では、人々は見えざる手に導かれて、互いに全く知らない者同士であっても、それどころか対立する人同士であっても協力することができます。こうした相互依存関係が強まれば取引相手の損失は自分の損失にもなりますから紛争は抑止されることになります。私たちがイスラエルの製品をつまはじきにする差別的な嗜好を持つようになることが平和につながるとは思えません。

*2:例えば、1947年の国連の分割決議案に沿ってパレスチナイスラエルを分割すればよいとよくいわれますし、それはもっともではありますが、そもそもパレスチナ問題は、その分割案を拒否して周辺のアラブ諸国イスラエルに侵攻したところから始まっています。1947年の分割決議案もアラブ側の全面的な賛成があるわけではないのです。「イスラエルはそもそも存在すべきではない」という極端な立場をとる原理主義者も少なくありません。そんな相手とはさすがに妥協しようがないでしょう。そうした勢力がある以上、1947年の国連案の国境を採用しても紛争は続くと考えるべきです。仮にイスラム原理主義者にイスラエルが全面降伏し、ユダヤ系住民が全ての土地をパレスチナに明け渡して全員退去するという”解決策”を採用するとしても、どこの国が亡命するユダヤ人を受け入れるのでしょうか。ナチス流に殲滅でもするのでしょうか。平和共存が必要ということは間違いありませんが、簡単に双方が納得できるような単純な解決策はありません。

*3:別に特にそういうことをしろと推奨しているのではなく、倫理的な一貫性からすればイスラエルのボイコットを唱えるならそうしないのはおかしいと言っているだけです。念のため。

*4:多くのメディアではイスラエルに対して過度に否定的な報道が目立つので、特にイスラエルへの誤った認識を批判していますが、パレスチナを悪魔化する人にも同様のことが言えます。今回のテロを機に反イスラム感情を煽ろうとしている人たちがいますが、ハマスパレスチナを代表していませんし、イスラム教徒をテロリストと結びつけるのは偏見であり誤りです。